教室が足りない

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しかし占領期の教育をめぐる最大の問題は、教室不足の問題であった。一九四七(昭和二二)年四月、学校教育法が施行され、義務教育の六・三制が規定されたものの、新制中学校を新設するための財政的な裏付けなく実施されたことが教室不足の最大の要因で、占領期のインフレがそれに拍車をかけたのであった。
 どこの自治体でも中学校の新設は、財政上の大きな負担であった。近隣町村では軍の建物を流用したり(東村山町、小金井町、昭和町)、旧青年学校教員養成所の建物を流用したり(久留米村)だったが、小平町はかつての青年学校の校舎を使うことで、小平町立小平中学校を開校させたのだった(近現代編史料集③ No.四九一)。しかし生徒数四四二人、一三学級に対して教室は七にすぎないため、二部授業が余儀なくされ、しかも教室はその合間を縫って町議会の会議にも使用されるというありさまであった。
 小学校はさらに悲惨な状況であった。小平にあった三つの国民学校は、小平第一、小平第二、小平第三の三つの新制小学校として再スタートしたが、予算不足から窓硝子はほとんどなく、児童は寒くて窮屈な教室で傷んだ机と椅子を使いながら、二部授業を受けなければならなかった。
 当局者は安い資材を求めて奔走し、小学校校舎の増築用資材にするために、軍施設の建物の払い下げを求めたがそれは成らず、結局大和村のある工場の建物を格安で譲り受けることになった(『小平町誌』)。また日立製作所の建物三棟を買収し、小平中学校の校舎と町役場に利用することとし、元の町役場建物は自治体警察小平町警察署庁舎に使用された(近現代編史料集③ No.四九三)。これらの増築に必要な費用について町は、一九四八年度臨時事業予算として起債二五〇万円、国庫補助金五〇万円のほか、四五〇万円(全体の六割)を町民からの寄付金でまかなうという総額七五〇万の予算を組んだ(第五章第三節2参照)。この予算については公聴会を開いて町民の批判を仰ぎ、町議みずから町民の中に入って意見を聞くなど、慎重な審議をおこなった末に可決した(『小平町誌』)。
 しかしこれで二部授業が解消したわけではない。都営住宅の建設や宅地化の進展による流入人口の増大、さらに五〇年代半ばになるとベビーブーム世代の入学もあり、児童数はうなぎ登りであった(図5-30)。したがって教室はすし詰め状態で、一九五八年になっても基準の一クラス五〇人を超える学級は、小学校で四七・七%、中学校では五二・六%で、六三人学級という超過密学級もあった。こうした状況に町は学校の増設に力をいれ、一九五四年に開校の小平第一小学校分校を五六年に第四小学校とし、五〇年開校の第二小学校分校は五七年第五小学校に、五八年開校の小平第一小学校分校は第六小学校に、そして六二年には第七小学校が開校した。また五五年に小平中学校の分校が小川にでき、これは五七年に第二中学校となった。

図5-30 小平町の児童・生徒数の推移と小中学校の開校年
(出典)『小平市三〇年史』より作成。

 こうして新設の小中学校が増えたが、その陰には地域の篤志家や保護者たちの支援があった。第五小学校の開校にあたっては、予算難と適切な土地が得られないことで建設が遅れていたところ、地元の篤志家が学校建設資金のためにと一〇〇万円の寄付を申し出ると、それが呼び水となり、敷地の無償提供の申し出や資金集めの活動が起こるなど、地域の支援の輪が広がった(近現代編史料集③ No.七〇七)。また第四小学校の前身である第一小学校分校が開校した際には、予算難で備品や教材、特別教室などの施設が不十分だったが、それを見かねた保護者が資金援助運動を展開し、三五〇名の保護者による「すみれ会」を結成して会費を集め、ブランコやオルガン、実験器具などを寄贈した。さらにすみれ会とは別に募金委員会が組織され、図書室と理科教室の建設資金の募金活動も起こった(近現代編史料集③ No.七〇九)。
 もっとも学校の新設が相次いだ一九五〇年代後半には、「学校は良くなったが、道路にもう少し力を」という声も市民からあがっていたといい(『小平町誌』)、教育文化の向上と都市基盤の整備とのバランスをどうするかで、財政上の苦心は続いたのであった。