有賀三二が参議院文部委員会(一九四九年五月一一日)における社会教育法案の審議に招かれた際の発言をみてみよう。有賀はまず、学校施設を社会教育に開放することについて、「全村教育的な経営」という観点から積極的に賛意をあらわしている。この「全村教育的な経営」ということの含意は必ずしもはっきりしないが、地域の人びとを結び付ける中心として学校や公民館を位置づけているように思われる。また社会教育が「男女青年の修養の団体」との連携をとりながら、義務教育修了後の「勤労大衆の教育の拠りどころ」となり、それまで自身がかかわってきた青年学校に代わるものになると期待しているのである。
実際に小平公民館は初期の段階から活発な活動を展開していた。公民館内には教養部・産業部・体育部が設けられ、教養部は農家の庭先や小学校を巡回しての「ナトコ映画会」に力を入れていた。ナトコ映画とは、GHQの民間情報教育局(CIE)による民主化プログラムの一環として機材とともに貸し出され、全国で巡回上映された教育映画のことである。そのほか一般教養講座や技術講習会も教養部の催しもあった。一方、産業部は農協とタイアップした農業技術講習会や農産物品評会を開き、体育部は青年会との共催による野球、駅伝、スクエアダンスなどを開催している。なお一九五〇年には『公民館だより』も創刊された(「小平市公民館の活動」)。
図5-32 ナトコ映画用の映写機
山形県立博物館