有賀三二と青年教育

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一九四六(昭和二一)年四月二九日の『朝日新聞』の記事「町に村に公民館 もりあがる民意で楽しみながら教養を向上」は、文部省社会教育局長が小平町の公民館活動を視察したことを伝えている。小平町は、社会教育・公民館活動の先進地として全国的に注目されていたのだが、その中心人物が小平の青年学校長をつとめ、のちに初代の小平中学校長を務めた有賀三二であった。有賀は一九四六年二月、アメリカ教育使節団に応対する日本側の教育家二九名のうちの一人に選ばれ、青年学校を擁護する立場から発言した。また同年八月からは、政府の教育刷新委員会委員をつとめており(一九四六~五二年、四七年から教育刷新審議会と改称)、この時期の青年教育・社会教育の専門家として活躍していた。
 有賀三二が参議院文部委員会(一九四九年五月一一日)における社会教育法案の審議に招かれた際の発言をみてみよう。有賀はまず、学校施設を社会教育に開放することについて、「全村教育的な経営」という観点から積極的に賛意をあらわしている。この「全村教育的な経営」ということの含意は必ずしもはっきりしないが、地域の人びとを結び付ける中心として学校や公民館を位置づけているように思われる。また社会教育が「男女青年の修養の団体」との連携をとりながら、義務教育修了後の「勤労大衆の教育の拠りどころ」となり、それまで自身がかかわってきた青年学校に代わるものになると期待しているのである。
 実際に小平公民館は初期の段階から活発な活動を展開していた。公民館内には教養部・産業部・体育部が設けられ、教養部は農家の庭先や小学校を巡回しての「ナトコ映画会」に力を入れていた。ナトコ映画とは、GHQの民間情報教育局(CIE)による民主化プログラムの一環として機材とともに貸し出され、全国で巡回上映された教育映画のことである。そのほか一般教養講座や技術講習会も教養部の催しもあった。一方、産業部は農協とタイアップした農業技術講習会や農産物品評会を開き、体育部は青年会との共催による野球、駅伝、スクエアダンスなどを開催している。なお一九五〇年には『公民館だより』も創刊された(「小平市公民館の活動」)。

図5-32 ナトコ映画用の映写機
山形県立博物館