一九五五年の青年学級からは、青年会の分会(『小平町報』第一八号によると、一九五四年時点で会員は男女五一四人、小川・小川新田・大沼田新田・野中新田・鈴木新田・五字の六つの分会からなる)というまとまりから地区単位で開設されるようになった。小川地区(コーラス)、野中地区(農業・和裁)、五字地区(料理)、中央(手芸・生花・料理・中学校卒業生学級)の各講座グループに、約二〇〇名の青年が参加した。翌五六年に開講された野中地区の青年学級のようすについて、『小平町報』(第二八号)では次のように伝えている。
野中青年学級農業コースは野中地区の農家の青年が集り、生活と直結したみんなの共通な問題として農業を中心に学習を行つております。農業改良普及員を中心に農作物を試作したり、農産物の成育調査、簿記による農家経営の研究等あらゆる面について話し合い、実践して新しい力として生活向上に役立せようとはりきつて学習活動をしています。この学級生は、こうした青年の集まりが各地域に出来て生活と結びついた問題を青年学級で話し合いされ、相互に交換し合つて町の生活を明るい、住みよいものにしたいと望んでいます。
図5-33 野中青年学級の活動を伝える「公民館だより」
『小平町報』第28号
野中地区青年学級の農業グループは、生活と結びついた青年共通の問題に対して、地区の農家の青年が集って学習し、話し合い、実践して研究するといった活動を展開していた。また同年の『小平町報』(第三〇号)では、小川地区青年学級のコーラスグループが盛んで、小平中学校分校(一九五五年九月に開校、五七年四月小平第二中学校と改称)を会場にして三五人(男性五人 女性三〇人)が集まり、一般教養を学習しながら活発な活動をしていることを伝えている。コーラスグループは、北多摩郡青年祭で第二位、東京都青年大会で準優勝するといった実績を挙げている。
このような青年学級のはじまりについて、一九五〇年頃より公民館の仕事を手伝いはじめ、翌五二年一一月総務課教育係に配属されて公民館兼任職員となった近藤春雄(一九五七年に社会教育係として専任職員となる)は、のちに以下のように振り返っている(近現代編史料集④ No.六六)。
〔青年学級振興―引用者注〕法が施行されると、〔中略〕わが小平でもいち早くこれにあたり、私たちは夜部落をまわって青年たち(当時は農村的色彩がつよかった)に青年学級をよびかけたのである。ある晩は早くかえれとどなられもし、また普段集りのよい地区でも青年学級の話しと聞いて、またかという顔をして帰ってしまう者もいた。しかし私の希望の灯はどこの会場にも何人かの青年が目を輝かして聞いてくれることであった。その結果、小川、野中、中央の三地区に男子は農業、女子は家事を中心とするグループができ、今で考えれば単調な学習形態であるが出発したのである。しかしその雰囲気は開放的で、暗がりの夜あそびしかその場を求められない青年たちにも楽しいひとときであり、話に花がさき、その花が生活に実を結ぶこともあった。
グループ活動が進めば当然のこととして現状ではあきたらなくなり、もっと要求がたかまってくるのである。グループができてまず壁にぶつかることは適当な指導者がいないということ、青年たちの希望にそう施設、設備がないということであった。
当時小平はまだ高校進学率が低かったので、中学校教員と話しあい、青年グループと並行して中学校新卒の年少者を対象に補習形態の卒業生学級も試みてみた。〔中略〕青年学級は自主的な面が強いよさの反面、社会的資格の付与が学校とちがう点もあって、こうしたものを望む青年たちには失望を与えたようである。
グループ活動が進めば当然のこととして現状ではあきたらなくなり、もっと要求がたかまってくるのである。グループができてまず壁にぶつかることは適当な指導者がいないということ、青年たちの希望にそう施設、設備がないということであった。
当時小平はまだ高校進学率が低かったので、中学校教員と話しあい、青年グループと並行して中学校新卒の年少者を対象に補習形態の卒業生学級も試みてみた。〔中略〕青年学級は自主的な面が強いよさの反面、社会的資格の付与が学校とちがう点もあって、こうしたものを望む青年たちには失望を与えたようである。
各地区の青年たちに向けて青年学級参加を呼びかけてまわった近藤たち職員の努力も実り、野中地区青年学級農業グループや小川地区青年学級コーラスグループのような活発な活動が展開されたが、活発になればなるほど適切な指導者の確保が問題になったり、学校施設等の施設利用だけでは物足りなくなって、充実した施設が必要になったりする。また、青年学級では高等学校卒業等の学歴や資格を与えることができず、そこに失望する青年も多かった。青年学級は種々の問題を抱えながらスタートしたのである。