新しい女性像

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第二次大戦が終結して間もない一〇月に占領軍が出した五つの改革指令の一つが女性の解放であった。速やかに封建的な国家を解体し、民主化を進めるため、抑圧されてきた女性の地位を向上することが求められた。
 一九四七(昭和二二)年四月、女性ははじめて衆議院議員選挙にのぞんだ。小平町の女性の投票率は五〇%、男性の六八%と比較すると大きく下回ったが、これはほかの町村も似たような状況であった(『小平町誌』)。人権の保障や男女平等をうたった日本国憲法のもとに、選挙権をはじめとした数々の新しい権利が与えられ、政治、教育、家族、労働などにかかわる法制度の改変は、女性の生活に大きな変化をもたらした。とはいえ、大半の女性にとっては、新しく得た権利の意義や内容を理解することもただちにそれを実行にうつす知識や力もなく、また突然に、家族関係を含めた生活スタイルが変わるはずもなかった。どこの自治体でも、女性の解放と地位向上をめざす啓蒙活動は大きな課題であった。
 一九五二年四月、独立後初めての総選挙を目前とした婦人週間に、『小平町報』は「婦人と政治」と題した文章を掲載した。住民登録制度や教育委員会委員選挙など新しい地方自治制度の開始も間近にひかえていた。
 女性の政治や自治に対する意識が消極的であることを「封建的な家族機構や社会組織の残滓の中に忍従」し、「戦後の激しい経済生活の重圧にあえぐ婦人の叫び」で、この重圧のために意欲を失ってはならないと記した。そして「育児、その他家事一切」を女性の使命としながらも、「婦人は婦人としての立場を認識した上、家庭生活との調和の上に立ち、出来うる限り政治に関心を示し、地方自治に協力される様希望」した(『小平町誌』第五号)。
 翌年の一九五三年五月には、「農家の婦人は過重労働」という文章を町報に掲載し、農家の生活の改善を呼びかけた。
皆さん、もう一度身近の生活様式をふり返ってみましょう。依然として煙たいカマドに目を悪くし、粗食に甘んじ、身体を構わず、少し余裕が出来れば貯蓄はするが、結局息子や娘の婚礼に、それでは足りず借金してまでお祭り騒ぎをする―これが現状ではないでしょうか?
 食生活にも、衣生活にも、台所、採光、通風にも、育児にも、伝染病、結核、妊娠にも集合の時間にも、冠婚葬祭にも風習(迷信)、風俗にも改める余地は、沢山ありましょう。これらを隣近所同志顔の知った人々で集り、研究し合い、協力して実行する方法を考え合ったらどうでしょうか? 講習会、座談会、幻灯会などで、知ることも必要でしょう。
 ただ実行には、単なる知識や、理解では駄目です。改善の姿ばかり判っても駄目で、改善の気持ちと運動の為の協力とが必要でしょう(『小平町報』第一一号)。

 当時、農家世帯は四軒に一軒程度の割合で存在していたが、この年の三月から、小平町では都の生活改良普及員の力をかり、山梨県東山梨郡塩山町影井部落の生活改善にならい、モデル地区として名乗りをあげた小川七番、北野中、堀鈴木の三か所で新生活運動に踏みだしていた。「終戦後のヤミ景気が脳裏より去らず、夢みている人は、目の覚めた時は後の祭りで、その時には、改善しようにも、その途が経済的に全く閉ざされてしまう」、「明日とは云わず、今日から頭を切り替えて、婦人の過重労働を解決し、時間を生み出し、子供の保育や教育に又自分自身の教養の向上やレクリエーションに時間をあてましょう」と農業に従事しながらも、育児や家族の健康、自身の向上にも時間をかける新しい農村女性の理想像を描いている(『小平町報』第一一号)。
 日に日に新しい住民が移り住み、刻々と変化する小平町が期待する新しい「婦人像」は、合理的な家事や育児に取り組みながら、「家庭生活」での「婦人としての立場」を認識し「家庭生活との調和」のうえで「政治に関心」をもち「地方行政に協力」する人であった。
 戦後の民主的で新しい住民関係や育児のスタイル、合理的な家事の方法などを伝える役割を担ったのが町報や公民館活動などであった。

図5-34 改善された風呂場の例 1950年代後半
『小平町誌』