一九五六(昭和三一)年度、文部省研究委嘱婦人学級の設置が予算化されたことを機に、全国に婦人学級が普及していったが、小平町では五七年七月から、松ヶ丘婦人学級が東京都教育庁の委嘱により開設された(『婦人学級実践記録』)。会場は小平第四小学校と学級員の私宅で、「各婦人会が委嘱を受け婦人会員に呼びかけて学級が開かれた」。二〇代八名、三〇代一八名、四〇代八名、五〇代二名、六〇代三名の計三九名が集まり、「意外と若い人達が多かった」(『公民館三〇年の歩み』)。学級の目標は「子供を正しく理解して私たちのくらしについて話し合いましょう」で、参加者の関心により五つのグループに分かれ、全体学習とグループ学習を組み合わせて、翌年三月まで毎週一回、計二三回実施された。全体会では、教材フィルムをみたり、教育庁指導主事の話を聴講したほかに、フォークダンスや娯楽映画鑑賞といったレクリエーションの時間ももった。グループ活動は、私宅を持ち回りで会場にし、話し合いをするだけではなく、問題点にかんする調査活動や結果を表やグラフにあらわす作業をおこなった。たとえば、主婦の時間調査をしたグループは、それぞれのある一日を睡眠や労働、娯楽、教養等の時間に分類し円グラフにして結果をまとめた。こうした学習は、「話し合いの素材として自分たちの身近な問題を、自分たちの手や目でたしかめ、事実のうえに立って話し合うこと」やグループ内での責任や協力の必要を知る手段として、婦人学級の運営で推奨されていた。「視野を広め、ムダを省き合理的な生活態度を習得」する活動であった。
当初、「引こみじあんなものですから家の中にばかりとじこもって居りましたもので最初は、こんなのいやだと思いました」「〝婦人学級〟という名前が厳しくなんとなく近づきづらかった」「何ができるだろうと半信半疑」という気持ちで臨んでいた参加者は、回を重ねるうちに打ち解け、集まりを心待ちに、楽しみにするようになった。「話し合い」と「反省」は、一人ひとりの良い参考、勉強になり、「いろいろ疑問に思い、ゆきづまった時も〔中略〕、よく考え、亦わからなかった時には経験者に気軽く話し合いの時に聞く」「良い母、妻、社会人として向上致したい」と自身の成長を認め、その中から自主グループも誕生した(『婦人学級実践記録』)。
公民館はその後も婦人学級の開設に力を注ぎ、町報でも呼びかけをおこなった(『小平町報』第六九号)。六一年度の小平町婦人学級は小平学園東地区と花小金井地区の二地区で開かれ、九グループ七四名が集まった。花小金井地区の学級は、三八歳の松村米子が公民館の主事から「花小金井でも婦人学級をもってもらいたいのだが、どうだろうか」と誘われて「やれるかも知れませんよ」と答えたことがきっかけではじまった。松村は町会長や婦人会長に働きかけて町内会の婦人層への呼びかけや説明会をおこない、三つのグループを誕生させた。この年の学級生の年齢層は五〇代以上が二〇名に増え、グループのテーマも育児や家庭生活にとどまらず、歴史やマスコミ、消費など世のなかの仕組みを学ぶ社会科学にまで広がった。木曜会というグループは「母のための日本歴史」を読み、自分たちの教わって来た日本歴史とは全くちがった事実のあることに驚き、「歴史的なものの見方、つまり個々の現象を通して、その根底に流れる「何か」を客観的に批判的に自分の目で見分け、正しい事実を探求しようとするそのもので、歴史とはそこから出発するものであることを改めて認識させられた」と感想を残した(『婦人学級のまとめ―つどい』)。
図5-38 『婦人学級のまとめつどい』1962年
婦人学級のグループ活動のなかで女性たちの間にみずから学び、考え、表現する力がついてきていた。しかし、婦人学級の開催も古くからある地域の婦人会に依拠しているところに限界があり、新しく移住してきた人々からより参加しやすい婦人学級の開催が望まれた。