最初に設置されたのは、一九四八(昭和二三)年の東京身体障害者公共職業補導所である。一九四一年、政府は小平村小川に東部国民勤労訓練所(厚生省所轄)を設置し、敗戦後の一九四五年に東部職業補導所(一九四七年から労働省所轄)として存続させていた。一九四八年、政府は職業補導用施設として労働省から東京都に譲渡し、東京都は、身体障害者用の東京身体障害者公共職業補導所と一般用の東京都多摩公共職業補導所を発足させた。
このように、戦時期に小平に移設されたのは軍事施設だけでなく、厚生省の厚生労働施設もあった。右の例は、厚生労働施設が戦後に転用されるにあたり、厚生省や労働省の目的の範囲でおこなわれたことを示しており、そこから身体障害者用の職業補導所が設置されることになった。そして東京都の公共職業補導所の設置が、身体障害児の関連施設の建設に結びついていったのである。
東京身体障害者公共職業補導所の初代所長になった宮崎吉則の回想によれば、一九四八年一一月に五二名、翌年一月に六二名の生徒を受け入れた(東京都立小平養護学校『道 創立二〇周年記念誌』)。生徒は戦争による障害よりも、病気や先天性による障害のある子どもが多かった。当時の小川は淋しく不便であり、何とか診療施設をつくりたいと思って、労働省や東京都の関係部局にかけあったが無理だった。ただ、当時の安井誠一郎都知事は、広大な土地があるので、ここに身体障害者の施設を集め、「三多摩振興の基地」にするという「大理想」を披露し、都の関係局長などを帯同して来所して北多摩郡の町村長会を開き協力を依頼したという。
安井都知事の強い政策意図をもとに、一九四九年三月、東京身体障害者公共職業補導所に附属病院が設置され、翌年には財団法人多摩緑成会に移管した。緑成会は、官庁だけではできない身体障害者の「更生補導」を目的に創設されたものである。宮崎によれば、病院で入所している生徒を「どんどん手術」すると、「今までと見違えるようによくな」ったので、一九五〇年三月、補導所の講堂に二〇数名の子どものベッドを移し、一九四八年制定の児童福祉法による肢体不自由児の療育施設として整育園をはじめた。整育園は、医療法にもとづく病院としての面と、児童福祉法にもとづく面との両面があるので、治療(訓練を含む)と教育(学校教育、しつけ、保育)を同時に受けることのできる施設である。一九五〇年七月、医療と教育の両立をはかる多摩緑成学園が整育園に併置され、同年一〇月、多摩緑成学園は、東京都立光明小中学校多摩分校として開校した。光明学校は、一九三二年、東京市に設置された肢体不自由児のための公立学校である。光明学校の支援を受け、教員と緑成会病院の医師、看護婦、さらに保護者の協力のもと、三多摩で唯一の肢体不自由児の公立学校が整育園の病室を借用してスタートした。整育園に入園して多摩分校に通うことができるようになったのである。
こうして一九五一年には、小川駅から二〇〇mの小平町小川の同じ敷地内に、東京身体障害者公共職業補導所と東京都多摩公共職業補導所、東京都多摩共同作業所(一九五一年設置)、緑成会の病院と整育園、多摩保育園(一九五一年設置)、それに東京都立光明小中学校多摩分校がそろった。東京都多摩共同作業所は、一般の失業者および職業補導所修了者を受け入れて、職業につくまで就業させる施設であり、療育の必要な児童は整育園に入りながら多摩分校に通った。多摩保育園は、同敷地内の職員用に設置され、地域住民の利用も認められた施設である。これらの施設や学校に入るために、他地域から家族で転居したり、施設や学校の卒園・卒業後も小平に住みついたりする人が少なくなかった。
図5-39 多摩補導所、設備の五年間
『郷土学習写真資料』No.1
小平町には、そのほかにも、一九四六年、戦災孤児を収容する施設として出発し、一九四八年には児童養護施設の認可を受けた東京サレジオ学園や、一九五〇年代後半になると、生活保護法による救護施設として、障害があるために単身で生活が難しい人たちに生活の場を提供する黎明会黎明寮と黎明会あかつき寮が設置された。
小平町は障害者や障害児、戦争で家庭や身体に影響を受けた人たちが通う町、住む町になったのである。