図5-40 小平町小川に設置された施設
ただし、これらの施設の目的と実際は同じでなかった。とくに整育園と多摩分校は、肢体不自由児の療育と教育の両立をはかるものであり、担当した医師や看護婦、マッサージ師、指導員、保母、教員らの試行錯誤による取り組みは、肢体不自由児の教育の可能性を探るものとなった。
多摩分校創立から二〇周年の記念誌(『道』)には、草創期につとめた関係者の座談会が掲載されている。そこでは、草創期の多摩分校について、「寺子屋ですね。子供子供に接しておりました」、「とにかく人と人が接しておりましたですなあ」、「分校のめいめいの先生が、苦しんで、暗中模索しかない」、「子供のためという一念でした。だって教育庁がそんな学校ありましたか(笑)なんて言うんですから」、「先生というのは、年中、金づちをもってとびまわってましたよ(笑)」「子供に合わせて施設なり、学校なりが育ってきた」と言われている。
発足当初の多摩分校は、都立とはいえ東京都からの補助はなく、教科書も古いものを譲り受けて使っており、分校ゆえに管理が間接的だったので、関係者と児童の「家族的な雰囲気」のなかで教育をすすめることになった。いや、すすめることになったというよりも、関係者はみな肢体不自由児の療育と教育の初心者だったので、協力して取り組まざるをえなかった。一九五一年から二〇年間、多摩分校につとめた林芳江教諭は、二〇周年記念誌に文章を掲載している(「あれから二十年」)。それによれば当初の一〇〇名の子どもたちは、「戦後の傷あとを負わされた子が多く」、両親不在や片親だったり、浮浪生活を経験したりした者もいた。年齢は三歳から二二、三歳と幅広かった。多摩分校の関係者である整育園長や教員、医師、看護婦、マッサージ師、指導員、保母、調理師は職種をこえて協力し、子どものベッドで並んで寝たり、交代で宿直をしたり、遠足や運動会の行事では、子どもの弁当や服装を気にかけたりした。座談会でいわれていたように、職種にかかわりのない関係者と児童の「家庭的な雰囲気」のなかで、「寺子屋」のように「子供子供」(一人ひとり)に接する教育がおこなわれたのであり、多摩分校は「生徒に合わせ」て「育ってきた」学校だったのである。
図5-41 緑成会保育園のようす 1955年頃
小平市立図書館所蔵