小平町では、一九五一(昭和二六)年に腸チフスが、一九五三年にはトラコーマがそれぞれ流行した。『小平町報』には、一九五五年の伝染病患者が一〇一名あり、赤痢・疫痢五六名、猩紅熱(しょうこうねつ)三七名、日本脳炎四名、ジフテリア三名、腸チフス一名だった。そのため、町では、種痘・腸チフス・パラチフス・百日咳の予防接種を実施し、結核についても児童生徒および対象者にツベルクリン反応、BCG接種、レントゲン検査を実施した。
母子衛生事業については、小平町と管轄の北多摩第一保健所によって実施され、乳幼児一斉検診や離乳・保育指導が保健所の医師や保健婦によって実施された。助産婦や家族計画推進委員により受胎調節(家族計画)も指導されていた。
この時期の小平町にあった病院は、戦前来の昭和病院と多摩済生病院、精神病院の国立武蔵療養所、これに戦後にできた緑風会病院、緑風荘病院、南台病院、松見病院などが加わり、個人医院も少しずつ開業した。
ただし、松見病院が精神病院として小川の旧陸軍兵器補給廠小平分廠跡に新設されるにあたっては、地元の小川地区と近接する東村山町廻田地区とが一緒になって反対運動を起こしていた。小川地区は、「住宅地が密集している」という理由であり、東村山町廻田地区は、付近に東村山中学と八坂小学校があり、「教育上から困る」という理由だった(近現代編史料集③ No.三八五)。
小平町で衛生環境が整備されはじめるのは、人口増大にともなう一九六〇年前後からだった。一九五八年に清掃事業がはじまり、一九五九年から町営水道事業が開始、小川東町に第一浄水場が完成、一九六〇年には中島町に町営ゴミ焼却場が完成した。小平町では、予防衛生対策として、回虫・十二指腸虫などの寄生虫予防や、ハエ・カの駆除に取り組んでいる。