戦時期は国家総動員の掛け声のもとに、国内のあらゆる人的・物的資源を効率良く動員することが至上命題となった。「銃後」の人びとも労働力として動員され、日々のくらしにも統制の網がかかった。同時に人びとのくらしを支える仕組みにおいて、行政の活動が少なからぬ意味をもつようになった。動員を効率化し資源を節約するためにも、行政が人びとの日常生活に介入し、伝統的なくらしを合理化しようとした。配給は物資の統制政策であるが、少なくともタテマエとしては人びとの生存を国家が平等に保証する制度であった。強い国民をつくるために、医療や保健にかかわる公的な制度の整備が進められ、戦時託児所のような子育て支援施設までつくられた。軍施設や軍需工場に勤務する人たちの住宅不足解消のため、公的な住宅供給もおこなわれた。こうして、総力戦という二〇世紀型の戦争の遂行のために、既存のくらしを合理化することがもとめられるとともに、くらしにかかわる公的な制度や施設が新しく登場してきたのであった。
しかし敗戦にともなって、そうした公的仕組みが機能しなくなった。危機のなかで人びとの生存を支えたのは、既存の人と人とのつながり、すなわち地縁や人的ネットワークであり、また患者自治会のような新しく作られた組織をつうじた相互扶助であった。
敗戦後の危機のなかにあって、日本国憲法の制定に象徴される政治・経済の民主化改革、地方自治の改革、そして地域内部からの民主化の動きが進展した。こうした戦後民主化の成果を踏まえて、くらしの安定とそれを支える仕組みの再建が急がれた。ただし再建されるべきくらしの仕組みは、伝統的なそれへ回帰することではない。戦時から敗戦後にかけて、小平では人口の増大と住民構成の大きな変動がおこり、非農業人口の比重が増大した。戦時開発によって生まれた施設の跡地は、一部は農地に戻ったものの、多くの部分は公的な施設として再出発した。したがって、戦後的なくらしを支える仕組みは、農業を前提とする伝統的なムラ社会の慣習や仕組みを改善・合理化していくこと、あるいは否定していくことになったし、戦前にも増してくらしにかかわる国家や地方自治体行政の役割が上昇していくことになった。