コラム 魂のゆくえと小平霊園

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 かつて墓地は、ムラ共同体の領域にしっかりと位置づけられていた。朝夕に墓参することもたやすく、祖先の霊魂が、小高い丘の木々に宿り、子孫の繁栄を願っていると感じ、故人の霊魂と親しくともに生活を営むことができたのである。しかし、都市化は私たちの生活する場所から墓地を引き離し、遠方へと追いやっていった。その顕著な例が東京であった。東京の人口は、一八九九(明治三二)年(一三七万人)から一九一九年(二三五万人)までに二倍近くにふくれあがり、死者をまつる青山や雑司ヶ谷、谷中など既設墓地も飽和状態になっていた。
 一九二三(大正一二)年の関東大震災は、多くの寺院を郊外へと押しやった。この年、北多摩郡多磨村(現府中市)で東京府の公園墓地の建設がはじまったのである。公園技術を駆使した欧米型の庭園式墓地のはじまりであった。この多磨墓地を先駆として、八柱霊園(現松戸市)が一九三一(昭和六)年に、そして北方(小平)霊園の計画が決まったのは一九四一年のことであった。事業開始は戦中の一九四四年で、着工は戦後の一九四六年のことであった。しかし、陰鬱(いんうつ)なイメージが付着していた墓地造成に反対がなかったわけではない。土地を奪われる地元農民が反対し、さらには日本農民組合(小平支部)もそれを支援し、霊園は縮小を余儀なくされていった。
 そのうえ小平事件である。一九四六年八月、東京芝増上寺の雑木林に若い女性が殺害されていた。この犯人の名が、小平義雄(四二歳)で、戦中から戦後にかけて残忍な手口で殺害した女性は一〇名にのぼった。事件は人びとを震撼(しんかん)させ、死刑に処せられた犯人の名前と小平霊園がダブって記憶された。小平霊園は、名を「武蔵野霊園」へと変更する案もだされた。
 そのためもあり、小平霊園は環境やイメージに特別な配慮をしている。霊園近くには火葬場もなく、参道の両側にはけやき並木、中央には花壇帯を設け、沿道の石材店も休憩所を兼ねるものであった。霊園内は、広々とした広場、林と芝生地帯を配し、土地は高燥にして、小丘の起伏になっている。武蔵野の面影を残すけやきの大樹や松の大木は残し、また小平に多く植えられていた砂塵(さじん)防止の茶の木などは、墓石間の生け垣に用いられた。墓域は、戦後民主主義の平等観を反映するかのように、軽重の差別なく比較的均一に区画され、各区には整然と墓石が配置されている。鬱蒼(うっそう)とした多磨霊園よりも、より光が差し込み、明るい場となっているのである。
 墓地に眠る故人には、社会運動家や小説家など反骨精神の持ち主が多い。全国水平社創設にかかわった佐野学、共産主義運動の宮本顕治、プロレタリア作家の宮本百合子や壺井栄、民芸運動提唱者の柳宗悦、喜劇俳優の植木等などである。この顔ぶれと多磨霊園に眠る著名人とを比すと、興味深い。西園寺公望、東郷平八郎、山本五十六、三島由紀夫などが眠るのが、多磨霊園墓地である。国家官僚や軍人などが多いのである。
 ところで、一九六三年頃に撮った写真が数枚、『開園五十周年を迎えて』のなかにおさめられている。マイカーを手に入れた家族が近況報告を兼ねドライブに、また家族が墓の前に重箱に詰めた御馳走(ごちそう)を祖霊とともに食している写真などである。すでにこの頃には、墓地に付着する陰湿なイメージは払拭され、親しく祖霊と交歓する家族が小平霊園にはあふれていたのである。

図5-43 墓地前の直会(なおらい)
小平霊園管理事務所『開園50周年を迎えて』