三多摩地域の各自治体が、都市計画の規制によって、地域の展開に大きな影響を受けることを認識するようになったのは、一九五六年四月に制定された首都圏整備法(五七年一二月施行)においてである。東京都・神奈川県・埼玉県・千葉県の全域のほか、茨城県・栃木県・群馬県・山梨県の一部を含んだ都心から約一〇〇km首都圏と定め、既成市街地、近郊地帯、周辺地域に区分して、人口と産業とを計画的に配置しようと試みるものであった。
小平を含む北多摩地域の多くは、近郊地帯に指定される可能性が高かった。近郊地帯では、既成市街地の無制限な膨張を抑え、緑地帯(グリーンベルト)の役割を果たすことが求められた。集団住宅や工場の進出を抑えて農地を残し、公園や大学・研究所等施設の建設が進められる。
農地から宅地への転換や、工場を誘致する際に大きな制限が加えられ、地域の発展が阻害されることを恐れた各自治体は、一九五六年一一月、調布市・府中市・北多摩郡全一三町に南多摩郡稲城町が加わり、近郊地帯設定反対期成同盟を結成した。首都圏整備法を推進しようとする首都圏整備委員会と反対期成同盟の折衝は思うように進まず、反対運動が続いた。東京都の斡旋によって、各市町村で独自の都市計画案が作成されたのち、東京都がとりまとめ、それをもとに首都圏整備委員会が近郊地帯の構想を再検討することになった。
東京都は一九五七年から三多摩全域の都市計画を改定する作業に着手し、一九六〇年に三多摩地方総合都市計画案をまとめる。そのうちの小平都市計画概要案(用途地域・街路計画・公園及び風致地区・下水道計画)について、小平町議会で同年四月より議論を開始する。その後、五回の修正を経て、小平町議会は一九六一年八月に最終要望案を東京都に提出し、一九六二年七月二六日に正式決定をみる。工業地域四九ヘクタール(二・四%)、準工業地域一二四ヘクタール(五・九%)、商業地域二八ヘクタール(一・三%)、住居地域一八八四ヘクタール(九〇・四%)であった。
一九六二年一〇月一日の市制施行により、東村山都市計画に位置づけられていた「小平町の区域」は分離された。都市計画区域は、原則として一市(その周辺町村を含む)を行政区域としていたため、市制をもって独立したのである(一九六八年の都市計画法改正により行政区分にかかわらず、「実質上の都市」を単位とすることとなる)。一九六三年九月二日、その名称は正式に「小平都市計画区域」となった。
図6-2 小平都市計画図 1963年9月
『小平の都市計画 小平市都市計画概要』
小平都市計画区域は、その後、一部用途地域の変更をおこなっている。一九六七年四月五日、小平駅南口駅前広場を整備したことにともなって、住居地域の一部(〇・七ヘクタール)を商業地域に変更する。一九六三年より始まっていた小平東村山都市計画久留米土地区画整備事業にともない、一九六七年一二月、住居地域五・六ヘクタールを住居専門地区に指定した。翌年一二月二八日には、御幸町地区で住居地域の一部を廃止し、新たに準工業地域を定めた。
一九六八年六月に公布された改正都市計画法では、用途地域区分が従来の四種類から八種類に変更された。それを受けて小平都市計画は全面的な見直しがおこなわれ、一九七三年一一月二〇日変更された。