大きな機構になると、職員の間に意思疎通を欠き、語らない摩擦が起こりがちです。〔中略〕小平の役人も二〇二人となりますと、意思伝達の面で、このままでは仕事にも停滞をきたすように見受けられますので、このたび、庁内広報を発行することになりました。〔中略〕町民へのサービスを高めるには、町長を中心として、みんながよく知り、よく聞き、よく話して、納得して、緊密な連携のもとに、つねに新たな意欲のもとに与えられた仕事を遂行することにあります。
都庁内で発行される『東京都日報』や近隣の『庁内広報たちかわ』に範をとっての発行である。当時の作成資料のなかに残る『庁内広報たちかわ』(第五号 一九六一年一月一日、第六号 一九六一年二月一日、第一〇号 一九六一年六月一日)、『庁内報あきしま』(創刊号 一九六一年六月二二日)から、近隣自治体でも同様の試みが開始されたばかりであることがわかる。一九六一年度に計五号が発行され、紙面には「事務能率」「事務合理化」の文字が並び、「会議の定刻は必ず守りましょう〝いそがしい〟はおたがいです」(第三号)など啓蒙的な内容であった。
この頃、議会や地域住民を問わず、「小平時間」が課題になっていた。小平時間とは、予定時間のはじまりやおわりを守らないことだった。一九六一年六月に大島宇一が市議会議長に就任すると、小平時間を一掃するため、市議会で時間厳守の協力を求めている。大島はのちに「市議会が模範を示せば」青年会、婦人会や自治会などの会合も「時間を守るようになると思って協力を求めたのです」と振り返っている(『小平市報』第六五号)。
庁内広報誌は一九六二年度からしばらく発行されなかったが、一九六四年九月から月一回で再び発行される。同時に、「あなたの声で事務能率向上を」といったうたい文句で提案箱を設けて、職員の声を集めるようになる。早速、「机の配置はどうあるべきか」(『小平町庁内広報』第七号 一九六四年一〇月)という提案を受けて誌上討論会がおこなわれるなど、庁内広報誌は、町議会の動きや事務を連絡するほかに議論の場にも活用された。