一九六〇(昭和三五)年から六五年にかけて、一〇代後半から二〇代前半にあたる青年層人口は、東京都ではほぼ横ばいであったのに対して、小平は二・三倍も増加している。ややのちの例であるが、一九六九年の公民館の調査によると、一九歳から二五歳までの青年層の構成は勤労青年が五割強、大学生が四割弱、無職(主婦、家事手伝いなど)が約一割であった(同前)。ここから、小平の青年層増加の中心は、小平に進出した工場に通う勤労青年と、一橋大学や津田塾大学などに通学する大学生だったと考えられる。
戦後間もなくから盛んな活動をおこなっていた公民館では、青年層を対象とした社会教育のクラスを開設していた。そのクラスで発行されていた通信をみると小平の青年層の構成の一部を垣間見ることができる。一九五三年に開設された青年学級は、六〇年代に入ると小平で生まれ育った「土地っ子」が少なくなり、他の地域から移り住んで来た人の参加が多くなった。一九六三年になると、「今年の学級の特色は、参加層がすっかり新しくなったこと、とくに小平にきてまもないサラリーマンが増加」して「都会的な傾向が強まってきた」。一九六七年度の学級生二四人の出身地をみると、小平出身者は四人、小平市以外の東京都内出身者は二人、東京都外から来た者は一八人であった。また、六八年度の歴史講座に参加した受講生のなかで、学級生記念文集『ともしび』に「生い立ちの記」を寄稿した一〇人のうち九人がブリヂストンなどで働く青年であり、一人が大学生だった(前同)。小平にできた大きな工場が、小平の外から青年が移り住む契機となり、人口増加に拍車をかけたのは間違いないだろう。