戦後、さつまいもの穴蔵で良質な軟化うどができることから、小平でも積極的に軟化うどの穴蔵栽培が研究された。一九五〇(昭和二五)年、出荷者十数名によって小平うど出荷組合が設立される。その後、うどの高値に刺激されて栽培者は急速に増加し、一九五五年に小平町うど生産組合が四〇名の組合員にて組織される。組合員数は、一九六一年には六〇名、一九六七年には八〇名を数えるようになった。
根株は五〇年代より長野県北佐久郡軽井沢町の農家に委託して、高冷地での契約栽培をおこなっている。委託量の増加と連作障害によって軽井沢町だけではまかないきれなくなると、一九六三年には同郡北軽井沢町、六〇年代後半に入ると群馬県勢多郡赤城村(現渋川市)周辺、一九七〇年代後半には茨城県、山梨県、新潟県と委託範囲を広げていった。
小平のうど栽培の最盛期は、一九六〇年代後半から七〇年代前半にあり、一九七〇年頃には一三万箱を出荷する産地となった。その後、一九七九年に加藤広吉が日本農業賞を受賞したことや、一九九〇年の大嘗祭(天皇が即位の礼ののちはじめておこなう新嘗祭)に小野茂男が小平うどを献納したことからも名声がうかがえる。
図6-8 うど掘りのようす(回田新田) 1958年
小平市立図書館所蔵