小平市園芸組合と植木せり市

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『小平町報』によれば、花卉(かき)園芸研究会は一九六〇(昭和三五)年に任意組合の花卉園芸組合を組織し、その後、一九六三年一月に法人化して小平市園芸組合となった。法人化することで、オリンピック関連事業や東名高速道路の植樹事業など大きな事業に参加しやすくなった。
 都内において、小平市園芸組合の花卉生産、即売実績は高く評価されていた。その名声と都内の花卉市場の拡大を背景に、小平の花卉生産は一九六五年以降急成長した。なかでも鉢物の伸びは著しかった。
 一方で、法人化にともなって組合名から花卉という名称がはずされる。一九六四年には、組合内に即売部、花卉部、樹苗部、青年花壇部の四部が、その後せり市部、造園部などが設置される。即売活動で花卉生産だけでなく植木生産も盛んになったので、組合では花卉分野にとらわれずに園芸分野全体の成長を目指し、それにともなって組織整備もおこなった。
 一九六四年一〇月から植木せり市を実施して、即売のみに頼ったこれまでの販売方法についても見直されるようになる。また、東京都と小平市の助成を受けて、一九六七年から温室団地推進施設設置事業を五か年計画で推進するなど、助成対象の重点を鉢物から植木、温室設備等の充実へ移していった。

図6-9 植木せり市のようす
小平市園芸組合『創立25周年記念誌』

 小平市園芸組合は、都市の緑化事業へも積極的に進出していく。樹苗部は、それまで比較的弱かった樹木部門の普及強化をはかるために発足したものである。公害に強い植木をつくるため、苗木品質の向上がめざされている。花壇部は、組合の青年部を中心に市内緑化事業の受注に対応するために組織されたもので、一九六八年七月の第一回東京都花壇コンクールで都知事賞を受賞するほどに技量を磨いていった。都内での小平市園芸組合の評価が高まり、一九六〇年代後半より緑と花いっぱい運動が展開されたことにより、小平市園芸組合は、市内の工場や団地などだけでなく、他市町村からの植え込みの整備依頼も受けるようになった。また、造園部は街路樹の整備にあたり、あかしあ通りの街路樹移植といった大きな事業にも携わるようになった。