恵泉女学園の学園長は、同窓会「楡の木会」に対して伊勢原町への移転理由を説明するなかで、小平が「空気や排気ガス汚染も目立ち、工場や集団住宅の激増の結果、用水堀の前途も危ぶまれ、農業は近い将来に差し控えなければならなくなった」(近現代編史料集⑤ No.一九三)と嘆いている。生活園芸科の移転は、小平にも都市化の波が押し寄せ、農業環境が悪化したことを象徴する出来事であった。
学園敷地のなかには、楡の並木があった。農芸専門学校の第一期生が移植したものであり、二〇年の歳月のなかで大きく育ち、学生にとって憩いの場になっていた。移転に際し、小平市に引き渡された。「ブルドーザーが動きまわり楡並木は切り倒され」る情景を、女学生たちは、残念な思いを抱きながら眺めている(近現代編史料集⑤ No.一九四)。
女学生たちの小平への思いは、以下の替え歌の歌詞から十分伝わってくる(「気のいいガチョウ」の歌で歌う。一、二番抜粋。『恵泉園芸科「伊勢原への移転」文集』)。
Ⅰ 昔小平で/タケニグサ掘ったとさ/そこから輝かしい/歴史が生まれました/たくましい先輩よ/よくやってくれました/イチョウの木陰の/閉鎖の寮で
Ⅱ 小さなニレの木が/はたちになった時/大きなトラックが/いっぱいおしよせて/ダンボール箱、布団袋/コンテナつめこんで/なつかしい小平を/出てゆきました
Ⅱ 小さなニレの木が/はたちになった時/大きなトラックが/いっぱいおしよせて/ダンボール箱、布団袋/コンテナつめこんで/なつかしい小平を/出てゆきました
園芸生活科では、収穫感謝祭の際に先生方を夕食に招き、余興として寮の各部屋ごとに替え歌を作って披露するのが毎年の恒例であった。そして、傑作な歌は代々後輩へと歌い継がれていく。この替え歌は、伊勢原校舎へ移転後に迎えた感謝祭(一九六五年一一月二三日)での最優秀作品となった。
移転残務作業中に発行された学生新聞『いぶき』(一九六六年三月)には、新聞部の学生が小平との別れを惜しみ、小平での二〇年を振り返るように、学園の印象を近所の人たちに聞いている記事がある。「恵泉の学生に対して、何かお感じになっていることは?」という問いに、「一〇年位の顔なじみみたいでねえ。町全体が明るくなったから、ヤッパリ学校ができてよかったね」、「農業をやる人が少なくなっているのに、恵泉の生徒さん達は作業着をきて一生懸命働いているから、私たちもはげみになりますよ」という声があった(近現代編史料集⑤ No.一九二)。園芸生活科と近隣住民との間の親密な関係をうかがい知ることができる。
全寮制で園芸を学んだ女子学生たちは、小平の土地や人びとに愛着をもって生活をおくったために、小平の自然や農業、地域の人びととのつながりがよくわかる記録をたくさん残してくれている。
図6-10 恵泉女学園短大の農業実習と建設中の小平団地 1964・65年頃
恵泉女学園史料室所蔵