ブリヂストンタイヤ東京工場では、操業にあたって、福岡県・久留米工場から多くの労働者を呼び寄せた。久留米からは電車や貸切バスで工場をあとにした。久留米駅ではたくさんの見送りの人たちが集まり、「送るもの、送られるもの共々に手を握り合い、別れを惜しむ光景」が見られた(近現代編史料集⑤ No.一七四)。
図6-12 久留米駅で東京工場転出者を見送る風景 1960年
『BSニュース』1960年4月号 株式会社ブリヂストン所蔵
東京工場への転勤者は、「工場にいれば、皆昔の仲間ばかりで久留米にいるのと同じです。気候にしてみても、久留米と殆ど変わらんし」、「ただ、チョットからっ風がひどいですが」という。工場内では久留米弁が使われることが多かった。東京採用者も久留米工場へ研修に行くと、工場内では久留米出身者に対しては久留米弁で話すようになり、「ほげる」という久留米弁に「ちゃう」という東京弁が合わさって、「ほげちゃう」という「久留米式東京弁」ができるほどであった。一方、転勤者は工場を一歩出てしまうと言葉がつうじず困ったという(同前 No.一七五)。
こうした転勤者は、工場での労働のほか、どのような生活を送っていたのであろうか。小平に来て間もない頃は、よく東京見物に出かけたようだ。それが落ち着くと、社内でのレクリエーションが活発となる。独身者は工場のグランドでよく野球を楽しんだ。工場の各課係でチームをつくり、ほとんどがユニホームもそろえていた。久留米工場と異なり、グランドやテニスコートが工場内に併設されているので、スポーツレクリエーションは久留米工場より盛んになった(同前)。
独身者の多い労働者に対して、工場の管理職者は、「やはり何か淋しいんじゃないかと思います。この点、早く家庭を持たして落着いて作業に努力させてやりたい」と考えている(同前 No.一七三)。転勤者にとって家族の支えは、大きなものであった。転勤して三年がたち家族をもったものは、ある日、余暇を利用して、家族団らんで高尾山に行く。久しぶりの山登りに大喜びする子どもの姿を見つめながら、九州弁が抜けきらない親に対して、東京弁にすっかり慣れた「子どもの成長を眺めつつ、家庭平和に暮らすのも楽しみなものである」(同前 No.二〇九)と思ったとある。ある転勤者はまた、工場作業中の事故で足関節切断の大けがを負う。結婚直後に小平に転勤したため、一週間しか一緒に過ごしていなかった妻がすぐ上京して手厚い看病を続けてくれたため、長い入院生活を乗り切ることができた。職場に復帰した転勤者は、妻のため、妻が宿した新しい命のためにも、さらに仕事に打ち込もうと誓っている(近現代編史料集⑤ No.二一〇)。