若年男子労働者の生活

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東京工場に集まった中卒の若年男子労働者は、どのような生活をしていたのであろうか。工場では大きな機械を取り扱い、一歩間違えると取り返しのつかない事故につながるため、緊張感が張り詰める。
 一九六四(昭和三九)年からブリヂストンタイヤ株式会社では、デミング賞(日本科学技術連盟は一九五〇年、米国のW・エドワーズ・デミングによって戦後の日本に新しい品質管理手法が紹介されたことを記念して設置)の受賞に向け、TQC(Total Quality Control=総合的品質管理)を導入する。徹底的な品質管理システムを追求した結果、一九六八年に受賞した(日本の企業では六社目)。このデミング賞受賞を目指した活動を社内で「デミング・プラン」と名付け、工場従業員は部署ごとに設定された生産管理目標に向かって、日々の労働に精進した(近現代編史料集⑤ No.二〇五)。
 こうした状況のなか、工場では遠地より親もとを離れて単身働いている若年労働者に対して、さまざまなサポートを用意する。職場での技術習得を補助する訓練と将来の中堅作業者の養成を目指した講座を開いた。講座では、ゴム・繊維・機械設備に関する科学知識のほか、国語、社会、体育の学校教育科目を用意し、教養(レコード、映画鑑賞)の科目も加えて、若者の学習意欲を喚起するように工夫されていた(同前 No.二一三)。
 さまざまなレクリエーション企画も用意された。入社したばかりの若年労働者には、毎年四月、バス約一〇台を連ねて東京見物がおこなわれた。二年目からは四、五月に、各課係別に分かれて一泊二日の旅行など慰安会があり、夏には水泳大会や海水浴、秋には寮生運動会が開催された。

図6-14 海水浴を楽しむ東京工場の若者たち(大磯ロングビーチ) 1965年
『BSこだいらニュース』第12号 株式会社ブリヂストン所蔵

 こうしたレクリエーションを楽しみにしながら、学習に精を出す者もいた。一九六五年より、工場では通信制の工業高校に通う者を支援する。最短期間は四年間で、五日に一度のレポート提出、二週間に一回のスクーリングをこなす必要があった。学生は、「遊びたいさかりの一六~二〇才、一か月四回の日曜のうち二回は立川の協力校に通うのです。日勤上がりのスクーリングは良いのですが後段上がりのスクーリングは、午前八時に仕事が終わると作業服を脱ぎ私服に着替え、寮を飛び出して八時三三分の立川行きのバスにのり、昭和第一工業高校に着くのが始業一〇分前。それから午後四時まで授業を受ける」のであった(同前 No.二一九)。
 ある卒業生は、独身寮の若者に向けて、「私として通信教育を受けられたことは大変幸せだったと思っております。苦しかっただけに想い出も数多くあります。〔中略〕高校に行きたいが仕事の都合とか年が上ではずかしいと思っている方、ぜひ科学技術学園工業高校に入学して下さい。僕は、一八才ではじめて今年はもう二二才です。僕の一年後輩に頭のハゲ上がった四〇すぎの人がいます。一緒にやっていても、おかしくともなんともありません。恋愛と同じで、年齢に関係ありません」とメッセージを送っている(同前 No.二一九)。
 一方、工場の用意する学校とは別に、地域の公民館で青年学級に参加し、勉学に励む者もいた。ブリヂストン工場に勤める若者が、小平市公民館で一九六八年度に開講された歴史講座に参加して、活発に活動する姿については、本章第四節3で後述する。
 このように、ブリヂストンタイヤ東京工場ではレクリエーションや学習機会を提供することで、若年従業員の定着をはかってきた。加えて、従業員と故郷の家族を結びつけ、従業員の各出身地で「父兄会」を開催した。青年が元気に働く姿を撮影したフィルムと、青年の近況報告を録音した「声の便り」のカセットテープを用意して、家族との面談をおこなった。家族の喜ぶ反応を伝え聞いた青年労働者たちのなかには、厳しい労働環境や独り寂しい東京での生活に対して打ち勝っていこうと、改めて決意するものもいた(同前 No.二一四/No.二一六)。