一九六一(昭和三六)年四月の採用者は約三三六名であり、その構成は、工場近隣地域の中卒女子が九四名、地方出身中卒女子が一四八名のほか、近隣地域から中卒男子二〇名、高卒男女合わせて六四名が加わっている(『むさし』第二八号)。近隣地域の中卒者採用試験では、北多摩地域を中心として約三〇校の中学校から約三〇〇名が受験していた。学科試験や面接試験を経たのち、女子約一〇〇名、男子約二五名が採用通知をもらう(近現代編史料集⑤ No.二二八)。合格率が三分の一程度と狭き門であった。
当時、日立武蔵で生産されるラジオ用トランジスターは日本の輸出商品の花形で、工場での仕事は大変忙しいものであった。急に体調を崩す者も多く、約三〇〇〇名の従業員のうち、一日平均の欠勤者数は一六〇名を数えていた。出勤率九四%に対し、工場では一日の生産目標を達成するために出勤率九六%を掲げて、出勤率向上運動を実施している(近現代編史料集⑤ No.二二一)。
狭き採用試験を通過し、花形産業で忙しく働く若年女子労働者のなかには、自分が「女工」であることに劣等感を抱く者もいた。日立武蔵で働くようになって二年が経ったある女性は、女工であることと、仕事のできなさにいらだちをおぼえて劣等感を抱えながら仕事に従事してきたが、自分なりの仕事のやり方を見つけて、「女工であろうと何であろうと、働けば何かの形で社会に役立つのでは」ないかと仕事と向き合おうとしている(近現代編史料集⑤ No.二二七、傍点は引用者)。
こうした若年女子労働者を抱える日立武蔵では、一九六三年に「チャームサロン」を開設する。チャームサロン(チャームは魅力でサロンは高級談話室というイメージを念頭に名づけられた)は、「おしゃれ」「音楽」「コーヒー」「ひるね」「おしゃべり」ができる場所として考案されたものである。「おしゃれ」については、資生堂の協力のもと、専門の美容師を常駐させて、無料で化粧を施して、肌の手入れやマッサージの方法を相談できるサービスを設けた。チャームサロンの利用は、一回五〇分(美容が二五分、「音楽」「コーヒー」「ひるね」「おしゃべり」の休憩が二五分)で、三か月に一度程度の招待制であった(近現代編史料集⑤ No.二二九)。
図6-15 日立武蔵工場チャームサロンの計画図 1963年
日立製作所武蔵工場『むさし』1963年11月28日 ルネサスエレクトロニクス所蔵
このように工場では、若い女性に魅力的な企画を用意する一方、教養を得られる学習の場も設けた。地方出身で独身の中卒女子従業員が生活する若葉寮では、一九六〇年に教養講座が開始される。講座では、月曜日に英語、火曜日に習字、水曜日に華道と茶道、木曜日に洋裁、金曜日に国語と社会、土曜日にレクリエーションの各科目が用意された。余暇を活用して、多くの寮生が参加した(近現代編史料集⑤ No.二三三)。
その後、若葉寮の教養講座が発展し、一九六四年五月、企業内学校の日立武蔵女子高等学園が誕生した。若葉寮八棟に隣接して建設された学園は二〇の教室を有し、翌六五年からはNHK学園の通信教育と提携して、高校卒業資格が取得できるようになった。高校卒業資格が取れる高等部は四年の修業年限で、一九六九年以降に入社した若葉寮生は全員入学が義務づけられた。一九六九年四月までに送り出した卒業生は四六七名にのぼり、高等部と専門部(二年の修業年限で、主に高卒女子を対象とする)を合わせた在校生は約一〇〇〇名を数えた(近現代編史料集⑤ No.二三二)。