教員による『こだいら』の刊行と社会科

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小平町内の小中学校教員による地域研究も一九五〇年代までは盛んであった。その教員が依拠していたのが『こだいら』である。『こだいら』は「小平町教職員協議会社会科研究部」が発刊した教育雑誌である。研究部は、一九五一(昭和二六)年五月に結成準備会を開き、六月四日に第一回研究会をもった。以後、月一回の割合で研究会を開き、翌一九五二年三月に『会誌』第一号(以後毎年一回、一九五九年より『こだいら』に改題)を刊行した。『会誌』第一号よりも前に刊行した創刊号準備号は、「研究部の歩み」「規約と部員及び役員表」のほか、彼らの意気込みを示すように「歌声よ起れ」、「社会科一年生のたわごと」、「社会科の理解のために」、「社会科をどうするか」、「随想一束」の社会科教育についての五論考を収録した。

図6-17 小平町教職員協議会社会科研究会『会誌』第1号 1952年

 社会科は戦後学校教育に導入されたもので、民主主義を担う教科として注目され、さまざまに論じられ、多くの教案がつくられた。この潮流に促され、小平町教職員協議会は、「地域社会に即した社会科教育の向上を図る」(「規約」)ことを目的に、地元郷土史家(土士田弥一など)と接触して「小平町史研究会」(一九五一年六月四日)を立ち上げ、小川(愛次郎)家などで合同研究会(一九五一年七月二一日)を開いた。これは『小平町誌』編さん事業の直接の契機になった小川家での伊藤好一や木村礎の古文書調査の開始とほぼ同時期であった。
 社会科教育に傾倒していた教員は、当初、社会科を中核に他の教科がこれに接合するというコア・カリキュラム的な「総合的な教科指導」を構想するが、一九五三年度から『会誌』は、社会科のみならず国語科・数学科・理科・家庭科・音楽科・保健体育科などの教科をも包含する総合的な教育研究雑誌として歩んでいくことになる。しかし逆に、そのことによって社会科中心の誌面に他教科の研究報告などが載り、徐々に郷土研究などの社会科的領域の研究や地域調査などは傍らへ押しやられ、原稿掲載が減少していくことになった。