小平中学校は、一九五一(昭和二六)年六月に文部省・東京都の「職業家庭科研究」指定校となり、翌五二年に文部省の「産業教育研究」の指定校となる。後者は、産業界の工業化にともなう理数系教科の重視という国の教育潮流を受け、来るべき産業社会における「実践的人間」の育成を目的とした取り組みであった(『小平市教育史資料集』第一二集)。小平中学校がこの指定を受けた背後には、戦前に育んだ小平青年学校における勤労と生産を重んじた農業教育の「実学」の伝統があったことを忘れてはならない。とくにこの学校で教壇に立った有賀三二は小平中学校校長(一九四七~五八年)として、また政府の教育刷新委員会および教育刷新審議会委員(一九四六~五二年)のメンバーとして、同じく青年学校で教壇に立っていた伊藤為次は小平中学校では「技術家庭科」担当の教諭として、また小平の郷土研究者として、小平の教育をリードする立場にあった(「終戦前後の小平青年学校を語る」)。