このような小平教育の「実学」への傾斜に対して、郷土研究を柱とする社会科中心の教育(コア・カリキュラム)を実践して来た教員にも動揺が生じ、みずからの教育実践を是正する傾向が生じる。後に社会科副読本『わたしたちの小平』(一九六〇年)や郷土史ダイジェスト版『郷土こだいら』(一九六七年)などの編集に携わる小貫隼男さえ「社会科批判の本質について―一つの前提―」(一九六二年)を著す。それによれば社会科は、アメリカのソーシャル・スタディーの移入であるが、そのことをふまえつつも平和と民主主義の教科として定立すべきで、それゆえ小学「三年では必ずしも地域性にこだわらず、地理や歴史の初歩的な見方、考え方を養うものを内容とする」べしと主張した。いままでの地域(郷土)個別の調査・研究に重きを置く社会科の在り方に変更を求め、普遍的・一般的な教育へと傾いていったのである。この潮流は、学校と郷土研究との連携を弱め、社会科と地域との接触は後退・弱体化することになった。
それを具体的に象徴するのが、『こだいら』第一一号(一九六二年三月)に載った郷土研究に熱心であった伊藤小作(二中教諭)の「お稲荷さま」である。これは、江戸時代の稲荷信仰一般を扱ったものである。ここには、小平市域に多数鎮座する屋敷神としての稲荷の小祠や、近在に知れわたっていた小川四番の瘡守稲荷(かさもりいなり)などについての言及はない。すなわち地域の民俗事象への眼が削がれ、一般化した稲荷信仰を扱うのみで、地域や郷土色という特殊・個別さが消去されてしまったのである。
以後、教師による小平市域の調査・研究は、同号に載った理科(生物)の分野から玉川上水沿道の植物に注目した「小平町の植物」(小平第二中学校・小池保次)の研究ぐらいで、郷土への関心は減少の一途をたどった。教員自身も一般的な教材研究に傾注するようになり、『こだいら』とは別個に、小平教育研究協議会は『研究集録』(一九六五年~)を刊行し、教材研究や学習指導計画案、教育実践記録など授業に直結する「実学的」・「実践的」な教育に力を入れるようになっていった。