学校の新設や増築と並行して、プールや体育館などの学校施設の充実が求められるようになり、一九六〇年代後半になると、各校で続々と整備されていくこととなる。特にプールは、一九六九(昭和四四)年の美濃部都知事による「東京のすべての小・中学校にプールを今年中につくる」という方針により、小平市内の八校の小学校で急遽建設されることとなった。一小では八月一五日にプールが完成し、プール開きが行われた。はじめて自分たちの学校のプールに入った子どもたちは、「うれしくてうれしくてたまりません」とか、「暑い時に他校に泳ぎに行くのはとてもつかれたけど、もう大丈夫」などと喜びの感想を述べている(『広報』第二五号)。プールの完成につづき、校舎の改築や体育館の新設など設備の充実については、まだ課題が残されていた。
校舎など施設の増改築だけでなく、教育環境整備も同時におこなわれた。小平市の学校給食は、一九六一年五月の小平第六小学校から始まった。その後、六二年に一小、六三年に二小・五小と、各小学校で給食が実施されていく。小学校の場合は、学内の調理場で調理する方式が採られていた。中学校の給食開始は小学校より遅く、一九八二年五月に小平第一中学校で開始され、調理を民間業者に委託する給食センター方式が採用された。
給食は「限られた予算でとにかく子供達に喜んで食べてもらい、それが栄養的にすぐれ、かつ衛生的に調理されなければ」ならず、栄養士は給食の献立には心を砕いていた(小平第三小学校PTA『ひばり』第四五号)。栄養士は、過去の献立を整理するなかで新たな献立を模索したり、子どもたちが食べ残した残菜で嗜好性を判断し、一方で嗜好ばかりによらず栄養面との兼ね合いで献立を決めたりと、苦心しながら取り組んでいた。
子どもたちにとって給食は、学校生活の楽しみの一つだった。三小のある児童は、「四時間目がおわったあと給食室の前の見本を見に行くのもぼくたちの一つのたのしみです。いつも『今日の給食はなにかな?』などといって四時間目がおわったあと給食室の前に行きます」と、給食を心待ちにするようすを述べている(『ひばり』第四六号)。
学校給食は、栄養面で児童や生徒の教育を支える一環に位置づけられ、実施後もPTAは関心をもって他校や他市の給食施設を見学した。二小PTA厚生委員会は、一九六六年二月に立川第四小学校の給食施設の見学会を開催した。その後九月には、二小の給食施設の見学および試食がおこなわれた。見学や試食の目的は、環境・衛生・設備などの管理や作業状況、行程について、一般の親たちにも関心をもってもらうことにあった。施設の状況(衛生状況や広さなど)についての意見はおおむね良好だったが、作業人員が少ないことに意見がだされ、給食担当者からは「病気の時も、下痢でない限り、休めない」との声があがった。試食については、パンの耳が堅すぎることや、おかずは味や量はいいが少し煮過ぎている、ミルクは甘すぎるなどの意見があった。このような見学会や試食会をくりかえすことで、安全、安心でかつおいしい給食が子どもたちに提供されていたのである。