母親たちの活動

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図6-21 小学校の運動会のようす 1968年
『小平十二小のあゆみ 創立10周年記念誌』

一九六〇年代の小平市内の小学校では、PTA活動が盛んだった。各学校ともPTA役員を中心に、各種委員会が設置されていた(例えば一小PTAでは、文化、広報、厚生、交通、地区の五つの委員会が存在)。各委員会の活動は、PTA広報誌で取り上げられ会員に伝えられた。一九七一(昭和四六)年時点での一小のPTA会則によると、PTAとは「教育を本旨とする民主的団体」であり、「会員は全て平等の権利と義務を有」し、「家庭、学校、社会の三者が一体となって子供達の幸福の為に尽すと共に、会員相互の教養を高め民主教育の完成を図る事を目的とする」ものであった(小平第一小学校PTA『ひろば』第三一号)。
 各学校で若干の表現の差はあれど、PTAは子どもたちが安心・安全にくらすことができる教育環境の整備のための活動の場(例えば校舎増改築への取り組みや交通安全指導など)であり、さらにPTAに集う親たち(その多くは母親)の学びの場、互いの親睦を深める場(各種勉強会・講習会活動やクラブ活動)でもあった。三小PTAでは、文化教養委員会の中にクラブ活動があり、バレーボール部、卓球部、写真部、コーラス部、フォークダンス部などのクラブがあった。これらのクラブは、毎週または月二回程度活動し、バレーボール部はPTA連合会の大会に出場したり、コーラス部は小平市民文化祭に参加したりするなど、学校の枠を超えた活動もおこなっていた。
 このクラブ活動に集う人びとは何を求めていたのか。部員たちはそれぞれの活動について、「家庭の雑事を忘れられるすばらしい時間」(バレーボール部)、「若返った気分にひたり」、「何もかも忘れ笑いと汗の一時間半、日頃のストレス解消にもひと役かって」くれる時間(フォークダンス部)などの感想を述べている(『ひばり』第三九号)。また、ある母親は、学校を卒業して社会人となり、その後当然のように家庭の主婦になって「平凡ではあるがこれでよいのだ」と自分に言い聞かせてくらしていたが、バレー部に入部して活動するうちに、「私自身の中に大きな変化が起きている」と感じたという。この母親にとってバレー部の活動は、「大人であり過ぎる」ことの負担から開放され、自分自身をみつめ直す契機になっていた(『ひばり』第四三号)。ふだんは家に引きこもりがちな母親たちにとってクラブ活動は、家事から解放され、自分自身のための有意義な時間をつくり出す一つの機会だったのである。
 一九六〇年代にPTA活動は活発におこなわれていたが、六〇年代後半から七〇年代になると年々PTAのクラス委員や役員の選出が難しくなり、担い手不足はPTA全体の問題として認識されるようになっていった。二小では、一九六九年度のPTA役員選出の際、推薦用紙を会員一〇〇〇世帯に配ったが一七票しか集まらず、急遽再配布された。それでも集ったのは最終的に七七票であった。危機感を抱いた当時の二小PTA役員は、会員から役員・委員選出に対する意見を収集し、広報誌『ひまわり』に掲載した。そこでは役員・委員選出が年々困難になっている理由について、「無関心」であることや、近隣に住む人であってもよく知らない、また近年働く母親が増加したため担い手が減っているなどがあげられている。
 一小の場合、PTA活動に対して積極的な人とそうでない人との温度差が問題となっていた。この温度差の原因としては、PTA活動に対する認識不足のほか、地域的な問題、働く母親の問題があげられていた。地域的な問題については、一小地区内で「地域社会の構造が極端に違うこと」(『ひろば』第三二号)や、「新しいものと古いものがいりまじっている」地域であること(『広報』第二三号)が指摘されている。「新しいもの」と「古いもの」とがどのような関係にあったのか、具体的には定かでないが、小平市に新たに転入してきた人と、もともと住んでいた人との間に距離感があり、そのことを指しているのではないかと思われる。それが同じ地区で活動する者同士の温度差になっていたのであろう。両者の温度差を解消するために、皆が参加しやすいように働きかける必要性が説かれている。
 一小PTA広報誌『ひろば』は、一九七一年に四号連続で「PTAのあり方をめぐって」についての特集を組んだ。第三一号「いっしょに考えましょう」では、一九七一年度に委員を引き受けた人たちの感想・意見を掲載している。そこには、「少しでも理想的なPTAに育てたい」や「自分の勉強になることだから、順番に経験してみることだと思う」などPTA委員の仕事に前向きな意見と、「くじ引きで選ばれたり、電話で依頼されたりして無理に引き受けさせられる選出方法に問題がある」や「委員を引き受けながら、働いているという理由で会合に参加しないのはどうか」など、委員の選出方法や参加のあり方についての不満が述べられている。翌第三二号では、各学年の委員選出方法が紹介されているが、投票や、公平を期すためのくじ引き、順番制などが多かった。その際、働いている母親は除外する、または働く人もPTAに参加できるように会合を夜開くなどの工夫もみられた。ある母親はPTAへの参加について、「おかあさん達にとって委員を、引き受ける事は日常生活と異った仕事故、果して自分に出来るだろうかという気持、又物価高の折、子供の教育費の捻出に、生活費の補足と、パートに、内職にと、外に働きに出ていなくとも、時間はいくらでもほしい現在、学校、学校と、気軽に出られる人はそう多くない」と母親たちの現状を語った。そのなかで自身も委員の活動に「果してそれだけの犠牲をはらう価値が、どこにあったのだろうかと疑問を持った」という。母親たちは日常生活との兼ね合いのなかでPTA役員の仕事や活動への参加を模索していたのである。

図6-22 PTA 活動をふり返るアンケート調査 1973年
小平第一小学校PTA『ひろば』第42号

 このような役員や委員の選出問題は担い手の問題だけでなく、そもそも学校にPTAが必要なのかを問うPTA有用・無用の議論にも発展し、その後この議論は幾度も取り上げられていくこととなる。