「保育の社会化」をめざして

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繰り返し示されているように、一九六〇年代から七〇年代にかけて、小平市では人口が著しく増加した。幼い子どもを抱えた二〇~三〇歳代の流入も多く、子どもの人数に比して保育施設の数は足りていなかった。またほかの地域と比べると専業主婦の割合が多かったものの、共働き家庭や、子育てをしながら働くことを希望する女性も出てきていた。保育施設の絶対的不足と、子育てのサポートのための環境や制度が整備されていないことは、保育施設の増設を求める声へとつながっていく。
表6-11 小平町時代の幼稚園・保育所
 名称経営主体設立年月職員数遊戯室
幼稚園小平学園幼稚園宗教法人1950年3月51
みどり幼稚園個人1950年12月6
あおば幼稚園宗教法人1951年6月4
サンタマリヤ幼稚園宗教法人1956年6月41(20坪)
保育所小平保育園都立1945年3月4 
緑成会保育園財団法人1949年6月7
小川保育園個人1955年4月4 
(出典)玉木直『私が見てきた保育の歴史』1998年より作成。

 一九六〇年代には、幼稚園や保育園が数多く建設された。一九六六(昭和四一)年の段階で市内六か所に保育園が設置されていた(都立小平保育園、市立大沼保育園、市立喜平保育園、花小金井愛育園、ゆたか保育園、緑成会保育園)。幼稚園や公・私立保育園は年々増えていたが、それでも入園希望者の受け入れは追いつかず、保育園では希望者の半分以下しか入園することができなかった。一九六五年一二月に小平団地では一八〇〇世帯を対象としたアンケート調査がおこなわれた。回答を寄せた九四三人のうちで、すぐに保育園が欲しいと答えた人は九六人、将来的に必要だと答えた人が六二二人と、保育施設の必要性を感じている人は多く、保育施設の設置は切実な問題であった。
 以上の状況に対応して、保育施設設置の運動が、保育をめぐる当事者である親や保母だけでなく、広範な人びとを巻き込みながら展開されていくこととなる。先の小平団地でのアンケート結果をもとに、新日本婦人の会小平支部では、一九六五年一二月に学園西町、津田町、上水本町区域における保育施設増設の請願をおこない、市議会において趣旨採択となった。またアンケート調査や請願運動をつうじて、保育施設の増設だけでなく、保育時間、保育料、保母の増員と待遇の改善など、保育内容、保育環境の整備への取り組みが求められている。
 保育施設の絶対的不足の解消と並んで、この時期に課題となったのが長時間保育の問題であった。母親がフルタイムで働こうとした場合、どうしても保育時間の延長が必要になる。長時間保育の要望は、一九六〇年代半ばの時点で小平市のみの問題ではなく、東京都全体の問題であった。この問題に対して一九六七年に美濃部都政は保育時間の延長を決め、それを予算に盛り込むこととした。長時間保育を望む親たちは都の方針を歓迎したが、都立小平保育園で働く保母たちにとっては受け入れがたい内容であり、両者の間には軋轢(あつれき)が生じた。保母たちの訴えは、現時点ですら満足のいく労働条件ではないところに長時間保育を実施されると、さらに過酷な労働状態になるというものであった。お互いの現状を少しでも改善させるために親と保母の間で話し合いがもたれ、①保育は一八時まで、②保母の超過勤務ではなくパートタイマーで補うことの二点を東京都に認めさせることで、決着がついた。
 一九六九年には、市内の保育園に子どもを通わせる親たちが小平市保育園父母連絡会(以下、父母連絡会)をつくり、保育運動の中心の一つとなっていく。一九七〇年に東京都は都立保育園を市町村に移管することを決定した。同時期小平市では、私立緑成会保育園を市の管轄にしてほしいとの要望が上がっており、都立小平保育園の移管と合わせて園児を大幅に増員し、両者を統合した市立小川西保育園が開園されることとなった。小川西保育園の開園にあたっては、都立小平保育園での労働条件を低下させないことが条件となっていたが、実際には園児一五〇人の定員に対して、六つの保育室で一五人の保母という態勢であり、保母たちの求める条件にそぐわぬ内容であった。一九七二年段階での小平市と周辺五都市との保母一人あたりの園児数を比べると、小平市が一一・五人で最も多く、ついで田無市で九・六人、一番少ないのは小金井市で七・〇人であった。小川西保育園開園にあたって小平市が提示した内容は一〇・〇人あり、他市と比べても決してよい条件とはいえないものであった。保母たちがつくった保育園連絡会議は、この条件に対し、①保母の増員または定員の削減、②保育室の増加を小平市に要望し、小平市は保育室二室増設と次年度に新たな保育園の増設を約束した(『小平市政の分析』)。
 新設された小川西保育園では、長時間保育が実施された。他の公立保育園でも長時間保育を望む声が大きくなり、父母連絡会をとおして市に陳情や請願が出された。当初、小平市は積極的ではなかったが、父母たちの強い働きかけによって、一九七一年一二月の市議会で長時間保育の請願が採択され、翌一九七二年度から実施することが決まった。ただし、保育園連絡会議は、今のままの労働環境では実施が不可能であるとし、①各園七人の保母の増員、②実働労働時間の短縮、③施設・設備の改善、④子どもがいる保母の勤務条件改善の四つの条件を提示し、この条件をもとに小平市職員組合や父母連絡会と協力しつつ運動を進めていくこととなった。その後、保育園連絡会議は、市内の保育園の実態調査とその結果をまとめたパンフレット「保母は訴える」を作成し、「職員の労働条件改善等の要求書」とともに小平市に提出した。

図6-24 1970年に新設された小川西保育園
玉木直『私が見てきた保育の歴史』

 一方で父母連絡会は長時間保育実施のための請願署名活動をおこない、それが発展して各園の父母の会、無認可保育所連絡会、保育園連絡会議による「小平の保育をよくする市民集会」が開かれることとなった。ここにおいて、長時間保育に関する運動は、さらに多数の組織と協力することにより幅広い運動になっていった。一九七三年二月二五日、大島宇一市長は、各園一人の正規保母増員と早朝託児に関しては正規の保母の労働条件を変えず、パート保母に関しては正規保母に切り替えていくことを提案し、この提案が受け入れられて運動は一応の終結をみた。
 保育園に子どもを通わせる親、保育園で働く保母、それぞれの立場から出発した運動は、互いの垣根を超え、他の組織とも協力し、小平市において「保育の社会化」をめざす大きなうねりをつくった。「小平の保育をよくする市民集会」は、その後も定期的に開催され、さまざまな市民組織を巻き込みながら、施設増設や長時間保育問題だけでなく、無認可保育問題、ゼロ歳児保育などの問題を地域全体の問題として提起していくこととなる。