一九六〇年代には、小学校低学年の子どもたちの放課後をどうするのかが問題となっていた。いわゆる「鍵っ子」の増加が社会的な問題となりつつあったのである。
一九六二(昭和三七)年、東京都に東京都学童保育連絡協議会が結成され、翌年、東京都は全国ではじめて公立の学童保育クラブを設置した。小平市でも一九六三年に小平第七小学校に最初の学童保育クラブが誕生し、以後一九六八年に二か所、六九年に一か所、七〇年に一か所と、徐々に増えていった。
小平第一小学校地区では、「一小地区に学童保育所をお願いする会」が設置され、一小PTAもそれをバックアップする形で運動がひろがった。学童保育所の設置を求める母親は、「事情が許すなら私たちも、家庭の主婦の座で子供の面倒をみたいと願っています。しかし現在私たちは、それぞれの事情があって働きに出ているためそれができません。いつも心がさいなむのは下校してからの子供の過しかたなのです。人にめいわくをかけていないか。交通事故にあいはしないか。など」と、理想と現実のはざまで、放課後の子どもを心配する心情を吐露している(『ひろば』第三四号)。「働く母親の願いとして、学童保育を」を合言葉に、一小PTAでは、学童保育とはどんなものかについて検討し、小平市および一小地区の現状を調べた。ここで提示された学童保育とは、小学校一年生から三年生の児童を対象とし、両親共働きか、その他何らかの理由で市長が認めた家庭の子どもに限って受け入れるという制度であり、指導員の人件費は東京都が負担し配置も都がおこなうが、施設は小平市が提供するというものであった。一九七一年時点で、小平市では七校の小学校で学童保育が実施されていたが、一小地区は校舎が増設中で施設の確保が難しいなどの理由で実施されていなかった。一九七一年に一年生および次年度入学予定者を対象とした実態調査がおこなわれ、一年生では一六人、新入生では六人、合計二二人の学童保育希望者があった。これらの希望者に対して市が再調査をし、その結果を受けて、PTAは市に対して要望や申し入れをおこなった。
小平市は、一九六八年七月一日に小平市学童保育事業実施要綱を、一九七二年四月一日に小平市学童保育指導要領および小平市学童保育指導員服務要領を施行し、学童保育の制度を整えた。小平市学童保育事業実施要綱には学童保育の目的として、「市内小学校の低学年児童で放課後母親等の就労により家庭的に放置され、かつ児童の属する地域社会において児童の生活に必要な遊び場等、適当な環境が得られない児童に対し、その地域社会と協力して児童の危険防止、不良化防止を計るとともに、これらの健全育成を期すること」が明記されている。市内小学校の一年生から三年生が対象で、各学童クラブの定員は三〇~四〇人程度、保育時間は原則下校時から一七時までであった。一小、八小を新たに加え、一九七二年の学童クラブは市内に九か所となっていた。一九七二年七月に実施された区市町村学童保育対象児童数実態調査では、この時点で設置されていない学校でも、学童保育対象の児童は、低学年児童全体の二〇%ほどいることが明らかになった。「母親も児童も安心して働き、遊び、学ぶことができる」制度として、学童保育クラブは利用されていくとともに、さらなる増設、また学童保育施設や指導員の待遇改善などへの取り組みが継続的におこなわれていくこととなる。