地域の人びとと朝鮮大学校

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小平に設置された大学は地域の人びととどのような接点があったのだろうか。大学と地域の人びとの接点を記録した史料はきわめて少ない。ここでは、貴重な例として、小平市制施行の前に現在の上水本町に住み、電気や水道、外灯がなく、悪戦苦闘するなかで近隣の朝鮮大学校の学生と接した久慈正一・敏子夫妻の経験を紹介する。
 久慈夫妻は、朝鮮大学校の移転と同じ一九五九(昭和三四)年に小平に移り住んだ(久慈敏子「上水新町に町が出来はじめの話」)。当時の住所は小川新田上水向(じょうすいむこう)といった。夫妻が一番困ったのは春になるとすさまじい黄砂が吹き荒れたことだった。吹き荒れるたびに昼間でも雨戸をしめ、部屋のなかでただただ静かにしていた。部屋中砂だらけになり、タンスの引き出しのなかまで黄砂は入り込み、掃除が大変だった。道路も舗装されていない農道で、勤め人は鷹の台駅まで長靴をはき、駅で革靴にはきかえて電車に乗って出勤した。そうしないと革靴が駅に着くまでに泥だらけになってしまったのである。
 久慈夫妻が近くの朝鮮大学校とかかわりをもつようになったのは一九六一(昭和三六)年の第二室戸台風のときだった(久慈正一「忘れられぬ無言の援助」)。第二室戸台風は戦後最大級の威力をもち、小平でも三〇mを超える最大瞬間風速で大きな被害を与え、久慈夫妻の家の二階の屋根は吹き飛ばされてしまった。当時、久慈正一は病いにより、ギブスをはめて動かなければならない状態だった。
 翌日、正一はギブスをはめた状態で米屋から借りたリヤカーを引き、雑木林に散乱した屋根の資材を拾って集めていた。すると見知らぬ数人の屈強な若者があらわれ、何も言わずに資材を次々と集めてリヤカーに積み、運んでくれた。若者たちについていったところ、彼らは朝鮮大学生だということがわかった。無言でさしのべられた隣人の温かい援助に感激した久慈夫妻は、この体験から朝鮮大学校を身近に感じるようになった。
 朝鮮大学校は東京都に学校教育法の各種学校としての認可を申請していたが、都は認可をうけつけず、政府は一九六五年の日韓基本条約の締結を機に、学校教育法を改正して外国人学校制度を設け、在日朝鮮人の教育を制限する意向を示した。これに対して地方自治体や知識人から認可を認めるべきだという決議や声明が数多く出された。

図6-25 建設中の朝鮮大学校 1964年
道岸勝一『ある日』

 地方自治体の議会として最初に決議をしたのは、朝鮮大学校が設置されている小平市の市議会だった(『朝鮮大学校の認可問題にかんする資料(1)』)。一九六六年六月二三日、小平市議会は文部大臣と法務大臣にあてた「在日朝鮮公民の民族教育権利保障に関する意見書」を全員一致で採択した。小平市議会は、意見書のなかで、政府は学校教育法を改正して外国人学校制度を設けて在日朝鮮人の民族教育を制限しようとしているが、「独立国家の公民が居住地のいかんにかかわらず母国語による民族教育を受けることは基本的権利」であり、世界人権宣言でも認められている。現在、申請されている学校教育法にもとづく各種学校の認可を認めるように要望した。小平市議会に続き、近隣の武蔵野市、田無市、調布市、保谷市、国分寺市、立川市、東村山市、清瀬町、大和町、町田市などの自治体議会も朝鮮大学校の認可を要求する決議をし、一九六六年一二月二〇日には東京都議会でも決議がされた(『朝鮮大学校の認可問題にかんする資料(2)』)。
 翌一九六七年四月、東京都知事に当選した美濃部亮吉は、各種学校の認可の権限が地方自治体にあることから、朝鮮大学校の設置認可を認める方向で手続きに入った。政府は、外国人学校法案の上程を予定して美濃部都知事を牽制したが、一九六八年四月、美濃部知事は朝鮮大学校を各種学校として認可した。この年の三月、政府は外国人学校法案を国会に上程したが不成立に終わった。その後も一九七二年まで数度にわたり法案成立の動きがあったが、法案は成立しなかった。
 小平市では、市議会に続き朝鮮大学校の認可を求める市民運動がおき、久慈夫妻も自然と運動の輪に加わった。一九六六年五月、「在日朝鮮人の民族教育を守る小平市懇談会」が設置され、一九六八年一〇月には、日朝協会小平支部が発足した。当時、一橋大学小平分校や津田塾大学には学生サークルとして日朝協会があり、学生が参加していた。日朝協会小平支部には、出発当初は久慈夫妻や大学生などの五〇名が加わり、最大八〇名が参加していた。当時、鷹の台駅近くには朝鮮大学生がよく通ったとんこつラーメンの店「二葉(ふたば)」があった。とんこつラーメンの珍しい時代であり、店の女性主人は朝鮮大学生から慕われていたので、朝鮮大学生がよく食べにきていた。日朝協会の支部の集まりは、この「二葉」の二階を使っていたという。