一九五八(昭和三三)年、小平公民館は青年学級の運営方法を変更する。それまで青年会などの要望を受けて講座を開設してきたが、公民館があらかじめ用意した講座科目から青年たちが自由に選択して参加する方法を採用した。月曜日から金曜日までの夜間七時から九時の時間帯に、毎日一、二講座を用意した。その結果、二七〇名もの参加申込者を数えた。
一九五九年度は六講座(生花・手芸・カメラ・謄写印刷・社会時事・音楽)、六〇年度は一〇講座(生花・服飾・カメラ・謄写印刷・ペン習字・自動車・社会常識・初級英会話・中級英会話・コーラス)、六一年度は前期一〇講座、後期一一講座、六二年度前期は一四講座、後期一一講座が開講されている(近現代編史料集④ No.六五)。参加者数は六〇年度が一七〇名、六一年度が三二三名、六二年度が一七九名であった。毎年の参加者のうち、およそ一〇〇名以上が新規参加者で、残りの五〇名が「青年学級生族」といわれた継続参加者であった。参加者の年齢は一九歳から二二歳が中心で、三〇歳を超えた者もいた(『小平町報』第四三号、近現代編史料集④ No.六五)。
一九六〇年頃になると、学級参加者に顕著な変化がみられる。青年学級生が毎年度末に作成する記念文集『ともしび』第三号(一九六〇年度)によれば、第一号(一九五八年度)の発刊時には参加者の多くが小平で生まれ育った「土地っ子」であったが、その後、徐々に他地域から移り住んできた人が増えてきたとある。新しく小平に移ってきた人たちは「参加する科目には熱心だが、そのほかのことには関心を示さない人たち」といわれており、仲間づくりに熱心な「土地っ子」たちは、町や青年学級に若者たちが増えているのに新しい友人が増えないことを嘆き、青年学級から遠ざかっていく。
一九六三年度になると、謄写印刷や自動車といった技能科目がなくなり、代わりに文章作法、話し方、青年と人生(青年の悩み、身体と心の健康について)といった教養科目が開講される。この時期の青年学校では、青年学級新聞『なかま』と、卒業の際の記念文集『ともしび』が作成されていた。青年学級新聞『なかま』(一九六三年一二月一〇日)では、参加者に「サラリーマン」が増えて青年学級の雰囲気が様変わりし、学級生と学習講座が「都会的」になったと伝えている。