一九六〇年代後半の青年学級

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一九六五(昭和四〇)年度の青年学級の参加者は計一四九名、開設講座は歴史(近代史)、青年と人生(職業、恋愛、人間性について)、話し方、美術の四つであった。六六年度は一五九名、歴史(近代史)、哲学(青年の生き方)、経済、文学の四つの学習講座のほか、音楽、美術、カメラの三つの趣味講座が設けられた。六七年度には一四七名、教養A(歴史と哲学)、教養B(話し方、文章作法)、趣味(ペン習字)、家庭(料理)の四つ、六八年度は一〇九名、歴史(戦後史)、哲学、文学、話し方の四講座であった。六九年度は、近代史、現代史、自然科学、手芸、うたごえ教室、スポーツの六講座が開かれている。一九六〇年代前半よりも講座数を減らし、より教養的な講座の充実が目立った。
表6-12 青年学級予定表 1961年前期
曜日科目講師内容
英話C立川基地高校程度の英会話
 ラネリー
手芸手芸研究家あみもの
 上妻悦子趣味の小間物
英話B立川基地高卒程度の英会話
 ドーズ
生花生花研究家池ノ坊、盛花生花、三種生け
 斉藤俊子
デッサン二科会会員基礎理論と実習
 山口長男
カメラ写真家撮影指導、構図の研究
 赤荻徳司作品批評
謄写印刷研文社ガリの切り方から製本まで
 矢沢芳郎
学級生のつどい専門家を依頼原則として全員参加
青年と人生、エチケット、社会の動き、広報、レクなどの委員会活動
音楽国立音大音楽の基礎知識
 大宮寛コーラス(日本民謡、世界民謡など)
自動車鈴木岩雄交通法規、自動車構造
英会話A立川基地大学程度の英会話
 シンガー
(出典)『ともしび』第5号より作成。

 なかでも特徴的な講座が、一九六五年度から六九年度まで五年連続して開講された歴史関連の講座である。公民館の職員として青年学級の開設から携わってきた近藤春雄は、青年学級卒業生に寄せる文章のなかで、歴史学関連講座の重要性についてふれている(『ともしび』第七号)。近藤は、「今日のように進学率が高く、学校教育の普及度が進み、加えて社会は急激に変化、進展してきていると、生活教育、実際教育としての社会教育の重要性、必要性がさけばれるのは当然であろう。なかでも青少年教育はもっと一層社会から重要視され、青少年自身もその自覚と認識を持つ必要がある」とし、青年が「ホンモノをつかむ一方法として歴史的考察の必要性を諸君に強く呼びかけたい」と説明している。近藤は、社会が急激に変化するなかで青年に対する社会教育の重要性を感じながら、青年が自分たちのおかれている状態を自覚するためには歴史を学ぶ必要があるとしたのである。
 一九六八年度の歴史講座を担当した講師は、一五回を数える戦後史学習を積み重ねたのち、前年度に続いて受講した男性A(二四歳、工員、埼玉県出身、中卒)の学習姿勢を、次のように評価している(『ともしび』第七号)。
この間、〔男性A〕君が、小平という地域の変貌を黒板に細かく分析してみせ、そこへ自分はこういう生活史をたどってやってきたんだ、そして小平の予算はこうだ、公民館の活動はこういうことなんだ、そして青年学級というのは予算的にこうなんだ、ズバリズバリと指摘してみせてくれたが、歴史の流れの中での自分の位置と自分の活動をたしかめていく、これがまさに歴史学習の真ずいであると僕は思う。

 男性Aは青年学級やその歴史講座で学ぶことで、生活している小平という地域と自分の関係を見つめなおす作業をしていたといえよう。こうした学習姿勢こそが、近藤が青年学級に求める姿だった。
 青年学級は、一九六五年度から対象年齢を二五歳未満に限定した。一九六四年度の青年学級では、一九歳から二五歳が六五%と大部分を占めていたが、三〇歳以上の人も二〇%以上存在していた(『ともしび』第六号)。こうした状況に対し、学級生は「学習だけならいくつ上でもいいけど、仲間づくりといわれるとダメになってしまう」(女性)、「仲間っていうと年令のことがどうしても問題になってしまう」(男性)と率直な気持ちを述べている(『ともしび』第七号)。学習面では年上の存在意義を認めながらも、仲間づくりの面では年齢差は難しい問題であった。
 参加年齢が限定された青年学級のなかで、一九六八、六九年度と続けて歴史講座を受講した男性B(一九歳、ブリヂストンタイヤ工員、岩手県出身、中卒)は、以下のような心境を語っている(『ともしび』第一二号)。
普段は会社と寮の往復だけでつまらなくて何もやることはなかった。自分がだらしなく感じた。自分が世の中から、とり残されてしまっているようで、自分は今どうなっているのか、又人はどうしているのか知りたいと思った。〔中略〕会社の仲間とは話したことのない、自分と環境の異なる人たちの物の見方、考え方のような物を聞くことができたし、喫茶店へいって日常生活のくったくのない話し合いにすごく親しみを感じた。

 男性Bは工場の先輩に紹介されて、青年学級に参加するようになった。工場での労働や寮での生活、そして両方での人間関係では満たされず、自分を見失いかけていたところで青年学級に出合って歴史講座を学び、自分とは生活環境の異なる近い年齢の仲間の考えに触れ合うことで、もう一度自分を取り戻そうとしている。本章第二節4で述べたような工場のサポートでこぼれ落ちる青年を、公民館青年学級は支えていたのである。

図6-27 青年学級のようす
『こだいら公民館30年の歩み』

 青年に適した教養講座を開設し、参加年齢を制限して、青年が講座で学んだ教養をもとに活発に議論しながら仲間づくりをすすめる環境が整った一方で、文集『ともしび』の編集に携わり、学級新聞『なかま』を発行するなどこれまで青年学級の中心を担ってきた運営委員会の役割に変化がみられた。一九六七年度の運営委員会は、八月の青年学級生のつどい、九月のスポーツ大会、一〇月の国民宿舎への一泊研修会、一一月の文化祭、一二月の閉級式と交歓パーティを五大行事としてその運営に力を注いだ。その一方で、記念文集や学級新聞の発行は、それぞれの役員に任されるようになった(『道』第九号 一九六七年度 本年度のみ『ともしび』から改名)。運営委員会の仲間づくり活動はレクリエーションに重点が置かれたので、各講座との連携や学習面での講座間の連携は弱まることになり、青年学級全体としてのまとまりは薄れることになった。

図6-28 小平市公民館・青年学級生連絡会『ともしび』第11号、1968年度