市制が施行される一九六二(昭和三七)年以降、公民館は急激な人口増加と郊外化が進む状況に応じた、女性に対する社会教育のあり方を模索するようになった(第五章第五節3参照)。このうち、主婦が映画をみた後に話し合い学習をおこなう「主婦のための映画教室」の一九六六年の目的には、「個人主義的弊風をぬぐい去」ることが謳われていた。すなわち、「都会化すればするほど、隣人愛が薄らぎ、隣はどうあろうと自分さえよければといった個人主義、利己主義におち入る傾向がある」ので、「そうした個人主義的弊風をぬぐい去り、まず隣人同士が仲よくし、生活を楽しく導くために開かれている」と公民館は説明している(『小平市報』第九二号)。同様のことは、近藤春雄も述べている。近藤は、社会教育の対象者が主体的に学ぶようになるために、「教育の問題一つとってみても母親としての連帯感、親としての連帯感、社会としての連帯感が土台にならないとうまくいかない」のであり、これは「教育にかぎらず生活全般についていえる」が、小平市では「発想が個人中心になってきており」、「視野が狭いというかそのような欠かんがある」ことを問題にしていた(『ひだまり』)。小平市の社会教育担当者は、新しく住むことになった女性たちの「連帯感」を醸成し、主体的に学習する女性を育てあげていくことを課題にしていた。
この課題への対応として取り組まれたのが、一九六六年六月一五日から一一月二日の期間に、市内五地区、全一二回の日程でおこなわれた「婦人教室」であった。婦人教室は、次のような問題を克服するために実施された。すなわち、女性を対象とした成人学校が、生活技術、趣味、一般教養などの講義中心であり、知識、技術の習得に「それなりの効果はある」ものの、「話し合いの足りなさや自分たちで新しいものをつくりあげていく姿勢の弱さ」があったこと、また、主婦のための映画教室では、「話し合い」をおこなうものの、「講師や助言者がいないため話しは横道にそれっぱなしになったり、問題を深めていくことができないまゝに終」っていた、という問題である。目的は「親の責任と主婦の生活観の確立」であり、当初の三回は映画鑑賞の後に座談会をおこない、その後、受講生が学習内容を決めたうえで五地区ごとの学習がおこなわれ(各地区七回)、最後の一回は各地区の経過報告と講演会であり、助言者を地区ごとに設けて学習を支える形にした。具体的には、教育問題や生活設計の方法、老後の問題などが取り上げられた。婦人教室の終了後には意欲的な女性が集まり、「教育問題を中心にしたグループ」(一八名)と「生活設計を中心として自分たちの習得した技術と知識を交換しあうグループ」(「小川A地区」の二一名)が生まれており、主体的な女性による「連帯感」の醸成という点で一定の成果があったといえる。ただし、教室の内実について、「まだまだ日ごろから教育の問題について熱心な階層で比較的暇のある階層が参加しているにすぎない」(公民館職員)、「最初の集りの時かなりの出席率であったのが 最後にはほとんどが欠席という状態になった」のは、「未成熟な集りが背のびをしたような、上から与えられたものに受身でぶらさがったような、きらいがあったのではなかったか」(学園地区の参加女性)、「花小金井のように三~四人になってしまいますと内容は深く話し合われてもだんだん出席する意欲がなくなってしまいます」(花小金井地区の参加女性)、という状況があげられていた。女性の主体性や「連帯感」の醸成という目的に対し、階層や主体性のあり方、人数的な広がりの点で限界をもっていた(『ひだまり』、「小平市家庭教育学級の企画運営に関する記録」)。