図6-29 小平町役場「国民健康保険のあらまし」
「昭和33年度 国民健康保険」 小平市所蔵
国保発足当時、九五〇〇人だった小平の被保険者は、一万九〇〇〇人(一九六五年)、二万八〇〇〇人(一九七〇年)、三万七〇〇〇人(一九七五年)と増加した。国保と同時期に、国民年金も国の方針にもとづき、小平町では一九六一年より実施されている。
生活保護法は一九四六年に制定され、一九五〇年に改正されていた。町村の生活保護法は地方事務所で取り扱うことになっていたので、小平町の生活保護は府中町の北部地方事務所の管轄であった。手続きは煩瑣(はんさ)であり、生活保護の受給と生活保護を使った診療は避けられる側面があった。
市制施行は小平における医療・福祉の役割と責任をひろげることになった。一九六二年、市制施行の年に生活保護を取り扱う小平市福祉事務所が開設し、一九六四年には北多摩北部事務所(のちの小平合同庁舎)の開所、一九六六年には小平市と東村山市の両方を管轄する小平保健所の開設が続いた。生活保護、母子衛生事業、結核予防など、それまで町外の施設を利用しなくてはならなかった医療・福祉の事業が、いずれも市内の施設でできるようになった。一九六三年には小平市社会福祉協議会も設置されている。
小平では公衆衛生に力を入れ、一九六二年の結核予防受診率は五割程度(全国平均四割)であり、一九六四年のモデル地区は八割の受診だった(『小平市三〇年史』)。小平市は、一九六九年、結核予防会から、東京都ではじめての結核対策優良都市として表彰されている。
本章第二節第1で述べたように、戦後の小平の人口急増の主力は若い人たちと子どもだった。小中学校の児童生徒が急増し、増加する学校医への需要には小平医師会が対応している(『小平市医師会史』)。一九六五年には、小学校一〇、中学校四、高等学校三、幼稚園一三、保育園六のそれぞれに三名程度の学校医が任期三年で配置されている。学校医は、夏期臨海、林間施設の視察、学校医のあり方、健康診断について研修会をもっている。
一九六〇年代の小平市は、国保と公衆衛生に取り組み、医師会と連携して医療を拡充している。『小平市報』を確認すると、福祉という言葉が一番早く出てくるのは「老人福祉」であり、一九六五年に第一回の老人福祉大会が開かれ(『小平市報』第七四号)、一九七〇年九月五日の『小平市報』(第一九二号)では老人福祉の大きな特集を組む。ただし、『小平市報』で心身障害が取り上げられたり、医療と福祉の接点について議論されたりするようになるのは、主に一九七〇年代に入ってからのことである。