一九六〇年代の小平では、地域で医療と福祉を結びつける重要な動きがあらわれている。一九六五(昭和四〇)年に精神衛生法が改正された。これにより、保健所が地域の第一線として精神衛生行政を担うことになったが、多くの保健所では、すぐにこの役割を担うことにはならなかった。これに対して小平保健所では精神保健事業に積極的に取り組むことになる。その理由として、小平には精神医療を取り扱う病院として戦前から国立武蔵療養所と多摩済生病院があり、戦後も松見病院ができたこと、さらに南台病院、昭和病院にも精神科、神経科が設けられており、市内の精神科のベッド数は、都内で八王子に次いで多い水準にあった。
以上の客観的条件に加えて、小平で医療と福祉を担う人たちの主体的条件が大きかった。松見病院の徳永純三郎医師は、措置入院してきた患者をそのまま受入れ、一通りの治療をして退院させる当時の治療方針に批判的であり、精神医療は予防とアフターケアを含めて地域で担うべきだという考えをもっていた(『地域精神衛生活動のあゆみ』)。一九六九年春には、松見病院で地域精神衛生懇話会の準備会が開かれ、小平市福祉事務所、小平保健所、東村山市福祉事務所の人たちも参加し、この年の四月には松見病院にケースワーカーがはじめて二名採用され、そのうちの一名はすでに精神障害者のリハビリテーションの実地経験を積んでいた。四月から六月にかけて、松見病院の徳永医師やケースワーカー、小平市福祉事務所のケースワーカー、小平保健所の事務担当が話し合いと学習をはじめ、七月の地域精神衛生業務連絡会(以後、「連絡会」)の設置にこぎつけた。
連絡会は、精神病院や黎明会あかつき寮などの民間施設、福祉事務所、保健所などの担い手(医師や看護婦、保健婦、ケースワーカー、ソーシャルワーカー、民生委員など)が参加して事例研究を報告する場だった。松見病院という民間のフットワークのよさをいかすことで、福祉事務所や保健所の公的機関を含めた連絡会を誕生させることができた。連絡会発足当時の事例報告には、「入院患者と家族に対する福祉サービス ケースワーカーの役割」「リハビリテーションとアフターケアの方法」「地域活動のすすめ方」「アル中患者の家族への働きかけ」「在宅患者の行動観察のし方」「分裂病の離婚問題」「住民から環境衛生上問題になった精神障害者について」「老人の精神障害の問題」などがあった。広範な問題が存在していたことがよくわかるだろう。連絡会は、国立武蔵療養所のアルコール病棟の見学や、デイケアの開設と活用、患者会・家族会との連携などをつうじて精神医療と福祉の連携を深めていった。
それまでは、ケースワーカーや保健婦が個々に問題をかかえており、治療方針も先に徳永医師が批判したような画一的な面があった。だが、連絡会発足以降は担当者の連携が地域で深まることにより、個々人が医療と福祉の問題を別個の問題として扱うのではなく、予防からアフターケアを含めて連携して解決する道が地域で探られるようになった。当時は地域で医療と福祉に従事する人たちが連携するという発想自体が乏しく、「地域ケア」という言葉もまだなかった。手さぐりではじめた事例研究の連絡会は、単なる研究交流をこえて、のちの言葉でいう地域ケアの試みにつながっていったのである。連絡会がきっかけとなり、一九七四年五月には、小平市と東村山市の精神病院長、保健所長、福祉事務所長をメンバーとして、毎月一回、地域の精神衛生問題をテーマに話す小平・東村山地区精神病院長協議会もつくられた。