一九六〇年代の都立小平養護学校

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東京都立光明小中学校多摩分校は、一九五七(昭和三二)年に東京都立光明養護学校となり、一九五九年には東京都立小平養護学校として独立した。やがて児童生徒数が増加して整育園に通わない通学生が増え、新しい教育の設備や体制が必要になった。

図6-30 小平養護学校の学芸会
小平養護学校『道 創立40周年記念誌』

 養護学校は、一九六四年、新校舎を竣工するために東京都をはじめ各方面へ運動をはじめた。それまでの保護者会はPTAに改組され、文部大臣や都知事に対して手紙による陳情をおこなう。その結果、鉄筋の新校舎が一九六六年と一九七〇年に竣工されることになった。これにより、整育園からの病室借用はすべてなくなった。
 児童生徒と通学生の増加にともない、養護学校では三つの大きな取組みがおこなわれた。障害の程度に応じた能力別の学級編成と、一九六七年からの高等部設置、通学生の増加に対してスクールバスと介助員をおいたことである。
 スクールバスは一九六四年の一台にはじまり、一九七〇年には四台で八王子、豊田、清瀬、東小金井の四方面に運行された(『道 創立二〇周年記念誌』)。一九七〇年の調査では在校生の六七%が通学生であり、うちスクールバス利用が六八%、自家用車一三%、電車一一%、路線バスと電車利用が五%だった。スクールバスは小学部の利用が三分の二と小さい子どもの利用が多い。スクールバスは、通学生の自宅近くまで運行するため、コースによっては通学時間が一時間半から二時間もかかった。一九六七年からは介助員が配置されて、重症者の通学や校内移動、身辺対処、学習活動などの介助を行い、保護者の負担を減らすのに役立ったが、在校生の増加のもとで介助員にできることは限られていた。これらを改善するためには、肢体不自由児のための養護学校の増設と介助員の増員が必要だった(一九七四年に都立村山養護学校が新設された)。
 小平養護学校卒業生の進路について二つの史料を示しておく。一つは小平養護学校『道 創立二〇周年記念誌』である。それによれば、一九五〇年から一九六九年まで養護学校の卒業生は一七三名を数えた。このうち「職場への定着率も八〇%に近い数字で、表面的には成果を挙げているし、そう間違った方向にも行ってないように思える」とある。一九六九年段階の内訳をみれば、中学卒男子は工場六名、洋服業五名、精密機械・製靴業各四名、理容美容業・商業・写真業各三名などであり、中学卒女子は、洋裁業七名、飲食業四名、看護婦・和裁業各三名などとなっている。ただし、卒業生の大部分はポリオやカリエスで、四肢の一部に不自由のある者だった。残りの二〇%は、「年々に増加してきた脳性小児マヒ児」であり、脳性小児マヒ児については「未解決の問題が多い」と記載されている。
 卒業生についてのもう一つの史料は、東京都立小平養護学校PTA広報部『小平通信』である。PTAの新設にともない、PTA広報部は一九六四年一二月から『小平通信』(のちに『こだいらつうしん』)を季刊で発刊した。一九六九年三月二四日の『小平通信』には、PTA福祉部会の開催により、父母四〇数名が子どもたちの進路について話し合った内容が掲載されており、二〇周年記念誌ではうかがえない父母の思いが吐露されている(近現代編史料集④ No.三九)。ここでは、卒業生の実態について、「自立している者は僅かしかなく、多くの者は何かしら問題をかかえているのが現状」だという。問題として指摘されているのは「不適応」のことで、低賃金や賃金差に本人が不満を持つ場合、施設を転々としてしまうことがある、学校、家庭、施設で、子どもの見方に大きなくい違いがある、障害者でも普通の会社で働けるようにしてほしい、などの意見が出された。

図6-31 小平養護学校PTA『小平通信』第1号、1964年12月25日

 『小平通信』では、二〇周年記念誌でも指摘された脳性小児マヒ児のことも話し合われている(近現代編史料集④ No.三九)。重度の脳性小児マヒ児をもつある親は、高等部を卒業しても、就職など考えられないので、機会あるごとに施設を見学しているが、そのたびに幻滅している、現在は施設に合った者を収容しているが、入所希望者の側が選択権をもつべきなのではないか、同程度の障害者を収容する施設を新設してもらいたい、など切実な意見が出されている。養護学校卒業生の進路問題、とくに脳性小児マヒ児の進路は、深刻な問題として受けとめられていたのである。