都立小平養護学校のPTA

582 ~ 583 / 861ページ
『小平通信』からは、PTAを担う保護者の思いを知ることができる。保護者には母親が多かった(近現代編史料集④No.三八)。
 たとえば、重い障害をもった一年生の母親六名が参加した座談会「母と子の一年」(一九六八年)では、母親は一年間学校に毎日通ってみて、子どもの「気持ちがしっかりしてきた」、「親子で泣く日も多いですけれども、それでも、最近はおちついてきた」、「給食とバスが楽しみで学校へ来るようなものでしたが、それでも楽しみは、楽しみです」とそれぞれ語り、一同、子どもは「学校は好きですねえ」と話す。母親が学校に来ることは負担だったのだろうが、「結果的には、親も精神的になぐさめられる」、「夜なんか一人でいると、子どものことを考えて、すっかりめいってしまうことがありますが、学校にくるとまた勇気づけられて」というように、いろいろな悩みと思いの起伏をかかえつつも、学校で親同士が交流することで気持ちを立て直す面があったことがわかる。そこから、「お母さんどうしのつきあいをもっともっとしたらいいと思います」という声にもつながった。
 子どもの学習や将来については、複雑な思いが垣間見える。「いっしょうけんめい勉強して、〔中略〕よくなっていくのでとても楽しみです。しかし、やはり障害が重くて「薬ざい師になりたい」なんていってますけど、かえってフビンに思ったりします」、「手も不自由、足も不自由で勉強らしい勉強はできませんけども、健康で、みんなと仲よく生活していくことでいい」、「できないことを数えだしたらきりがないですから、できること、できることと育てていくことなんでしょうね」というように、自分にいいきかせるような話し方のなかに揺れ動く気持ちがみえる。PTAの司会が、「子どもは『社会の子』」で、障害のある子どもも「親の手をはなして、社会が面倒をみるべきだという考えもありますが」と聞いたところ、即座に「そういう考えは反対です」という返事があったように、母親の強い責任意識が垣間みえる。この当時、子どもの育児や教育はとくに母親の責任だといわれた。障害児の母親には、母親の責任意識がいっそう重くのしかかっているようにみえる。
 一九六〇年代の小平養護学校は教育体制や設備を拡充する。そのことは、保護者の負担を軽くするとともに、とくに子どもの通学に付き添う母親の負担と責任意識は小さくないことがうかがえる。学校での母親同士の交流やPTAが母親の負担を軽減するうえで大きな役割を発揮していたのがこの時代であった。