一九六四(昭和三九)年一一月一四日、日本住宅公団・小平団地の入居申し込み第一期分一五七〇戸の抽選結果が新聞に掲載された。そのころ小平団地はいまだ完成しておらず、一九六四年五月の着工以来、翌年三月入居に向けて突貫工事が進められている最中だった。もともとここは東京管区警察学校の敷地の一部で、当初払い下げられてビール工場の用地となることで話が進んでいたが、下水道が未整備で工場排水の処理ができないため断念され、代わって公団団地が建つことになったのであった(前田雅尚「小平団地誕生の記」『小平団地二五周年記念誌』)。
入居者の抽選倍率は平均五五・六倍という高倍率で、幾度となく落選を経験して、やっとのことで当選した人ばかりであった。当選者は一二月に千代田区九段にある住宅公団の事務所に出頭して書類を提出し、所得審査を受けなくてはならない。これにパスすると一九六五年三月初旬に契約、そしてようやく三月一六日に入居開始となったのである。ある住民は「敷金などあれこれ払うと引っ越しをするお金がありません。都内にいた姉にお金を借りて三月二〇日に世田谷のアパートから五日市街道を西へ西へとトラックにゆられ」と入居までの悪戦苦闘ぶりを回想している(「三十年の想いあふれて」)。
そのころ団地住民は「団地族」と呼ばれた。高倍率を突破して、鉄筋コンクリートの新築アパートに入居し、新しいライフスタイルを追求した人びとに対して、羨望の意味をも込めて使用された言葉である。では、あこがれの団地生活とは、どのようなものであったのか。
日本住宅公団は一九五五年に発足したが、それは戦後復興期の住宅の絶対的不足が解消しないうちに、高度経済成長による都市への人口移動がはじまって、住宅難が再び深刻化していたころであった。「住宅対策の拡充」を最重要施策として掲げた鳩山一郎内閣は、住宅建設一〇か年計画を策定し、その推進主体として住宅公団を設立したのである。低所得者層を対象とした地方自治体による公営住宅に対し、公団は公営に入れない都市の中流勤労者を対象に、良好な環境と性能の高い住宅を大量供給することを目指した。
そこで採用されたのが、家族規模と間取りを一致させたnDKモデルで、夫婦と子どもからなる核家族が標準的な入居者として想定されており、2DK・3DKの住宅が大量に作られたのだった。こうした間取りの住宅が大量供給されることで、舅・姑ぬきの核家族こそが、都市型家族の理念となっていった(「現代日常生活の誕生」)。
住戸は狭いながらも合理的に設計されていた。板の間のダイニングキッチンが住戸の中心におかれ、テーブルに椅子式の食事スタイルのもと、食生活の洋風化と調理家電の普及が進んだ。水洗トイレや浴室、ステンレス流し台や洗面台といった水回り設備は、衛生的で清潔なくらしを約束した。そして鋼製の玄関ドアや窓のサッシは各世帯のプライバシーを守った。家賃はサラリーマンの月収の四〇%前後を想定して設定されており、民間アパートと比べて決して安いとはいえないが、狭くて粗末な木造賃貸アパートや間借り生活に甘んじていた人びとにとって、すべてにおいて夢のような住戸であった。
団地は、郊外の「街づくり」の視点から、良好な住環境と利便性が追求された。電気・ガス・上下水道といったインフラの整備はもちろんのこと、学校や幼稚園、公園、診療所、郵便局、商店施設などの公共的施設が機能的に配置された。建物と建物の間は余裕を持って建てられ、開放感と日照を保証した。