消費生活の共同防衛

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『さざんか』第二号(一九六六年二月五日)は「家計簿から見た暮らし」と題して、会員の主婦三名から家計の状況を取材している。T家では過去三年分の家計簿を点検したところ、三年前に収入の三九・四%だった食費は、四六・五%へと跳ね上がっており、「昇級も追いつけぬ物価高」で家計が圧迫されているのは明らかだった。教員の共働き夫婦F家は仕事に使う書籍代がかかる上に、公立保育所に入れなかった〇歳児の保育に毎月二万円近くを支出しており、これで「母親の給料が二万円プラスアルファでは間の抜けた話」と、貯金もできない現状を嘆いていた。「いったい暮らしはこの先どうなるのか。文化的なのは団地の外観だけになりかねない」と語るMさんは、物価について友人と話をするなかで「自治会で野菜・魚肉・下着などを共同購入してもらえないかしら」とか、「物価値上りに鈍感になってしまっていたのがいけなかったのね」という話題になったという(近現代編史料集④ No.九八)。
 このように耐久消費財の購入や文化的支出(教育費や教養・娯楽費)への強い意欲をもつ団地居住者たちは、物価の高騰に悲鳴を上げており、特に食費の圧縮に強い関心をもっていたといえよう。団地の初期の段階では周囲に商店はなく、団地内にスーパーマーケット一軒と他に商店が数店あっただけで、値段が高いと利用者には不評であった。物価の問題は住民の切実な関心で、それに応えて自治会は、消費生活の共同防衛を活動の柱のひとつに据えることになった。
 自治会は、発足直後から近隣の牛乳販売店の組合(乳和会)と契約して、自治会員は牛乳一本につき市価の三円引きで購入できるようにした。ところが一九六七(昭和四二)年四月に乳和会は二円の値上げを通告したため、自治会側は乳和会以外の業者から購入することにしたところ、乳和会がその業者に圧力をかけ販売をストップさせた。業者を変えるたびに同様のことがくりかえされたのち、ある牛乳販売店との関係が軌道に乗った。その際販売店からは値上げしない代わりに配達員の不足分を自治会で雇用すること、領収書書きを自治会で協力することなどが求められた。牛乳販売店と自治会の双方の努力の結果、市価から五円ほど安い「自治会牛乳」が維持され、小平団地の半数以上の世帯がそれを利用した。この共同購入は牛乳パックの時代になるまで二〇年近く続いた。
 自治会事業部では牛乳のほかにも、灯油や日用雑貨、お茶、食肉などを市価より安く入手できるよう共同購入や購入斡旋をおこなった(近現代編史料集④ No.一〇〇)。さらに実現はしなかったものの、団地自治会で生活協同組合を設立するという構想まであった(『さざんか』第四五号)。

図6-35 小平団地自治会『さざんか』の広告
小平団地自治会『さざんか』第61号、1970年10月30日(上)、同第45号、1969年9月25日(下)、小平団地自治会所蔵

 このように団地自治会は、生活必需品の共同購入によって、物価高へ対抗することに積極的であった。食品や雑貨など日常必需品の支出を抑えることは、将来のための貯蓄や子どもの教育費支出はもちろん、大衆消費社会の中で耐久消費財やレジャーへの支出にも旺盛な意欲をもつ団地住民にとって、どうしても必要だったからである。住民たちが自治会に期待を寄せ、参加していく現実的な理由は、ここにもあった。自治会の物価問題への強い関心は、のちに家賃・共益費値上げ反対運動やバス運賃値上げ反対運動といった、外部に働きかける運動につながっていった。
 同時に消費生活をめぐる「共同」の動きは、消費生活を見つめ直すことにもつながっていった。販売業者の圧力に抗して「自治会牛乳」を守る活動は、消費者主権を目指す消費者運動の側面をもっていたといえる。一方、団地内集会所で開かれる不要品交換会の「さざんか市」は恒例行事となり、家具やミシン、子ども用品、衣類などの交換が成立して大好評だったし、こわれた器具や家電を修理する「便利会」も大盛況で、それを伝える記事は、ものを修理しながらできるだけ長く使えば「新製品の名の下に、高いものを買わされずにすむ」「メーカーの資源の無駄使いを抑制することにもなる」と意義づけていた(『さざんか』第一二九号)。つまりこうした活動は、家計を楽にするというだけでなく、メーカー主導の大量消費=大量廃棄型生活を考え直すきっかけとなったといえよう。