敗戦後の小平町における旧軍用地の解放、住宅問題と人口増加、軍関連施設・総力戦関連施設の転用については、第五章第一節1で詳しく述べている。旧軍用地の解放をいちはやく求めたのは小平町の農民であり、帰還した引揚者で家屋がなく、農家の倉庫を間借りするものが小平町にも流入してきたこと、住宅の絶対的な不足に対して、住宅営団による中宿住宅が建設され、一九四六年四月から入居を受け付けたことなどがわかる。
一九四七年五月には、東京の浮浪児を受け入れていた東京サレジオ学園が小平に移転してきた(東京サレジオ学園『サレジオの五〇年』)。イタリアで創立されたカトリックのサレジオ会の宣教師は、世界の青少年を指導する一環として戦前に来日していた。戦後になり、特別高等警察の監視から解放され長野の収容所から東京にもどった宣教師は、上野の地下道で浮浪児に接し、一九四六年二月、最初の孤児を神学校に連れ帰った。四月、東京都練馬区高松町の旧陸軍成増飛行場跡の兵舎を使って浮浪児を受け入れ、翌年二月に東京サレジオ学園小学校を設置した。成増の兵舎はアメリカ軍の住宅地になるため、占領軍や東京都社会局の協力によって小平の旧陸軍研究所跡の払い下げを受けて五月に小平町に移転した。当時、子どもたちは六〇名になっていた。一九四八年一月には児童福祉法による養護施設の認可を受け、中学校も設置した財団法人東京サレジオ学園として認可された。
図6-38 自習室で勉強に励むサレジオ学園の子どもたち 1948年
東京サレジオ学園『サレジオの50年』
一九五七年現在、サレジオ学園には二五〇名の子どもがいた(『東京サレジオ学園設立一〇周年記念』)。小学生一八九名、中学生九五名、高校生二名、未就学一名、職業補導児一三名だった。サレジオ学園に来た理由は、貧困家庭児九〇名、父母のどちらかが長期入院二九名、父母のどちらかがほかで働く二二名、父母のどちらかが死亡か失踪二二名、棄児一八名などだった。保護者をみれば、母のみ八六名、父のみ五八名、両親三九名、縁故者なし三五名だった。