戦後の人口増加の流れに即して、一九五五(昭和三〇)年頃までと、そこから市制施行の一九六二年ころまでに時期を分けてみると、戦後一〇年間の小平町では、人口増加に結びつくような移動―定着と、軍関連施設・総力戦関連施設の転用施設で研修を受けたり、学んだりする移動―滞在の二つの移動があった。前者を導いたのは、住宅営団・都営住宅の建設と戦前来の小平学園地区での個人による土地購入だった。
住宅営団の中宿住宅に続き、一九四七年からは都営住宅の建設がはじまった。一九四七年にたかの台にできた第一都営住宅(通称「鷹の台住宅」)にはじまり、以後、一九五四年までに総計一七か所、一〇〇八戸の都営住宅が小川東町、上水南町、学園西町、津田町などに建設された。
軍関連施設・総力戦関連施設の転用で、小平町に滞在者が来たのは、たとえば陸軍経理学校跡に一九四七年に移転した東京管区警察学校であり、関東甲信越地方の警察官が一年間で四四〇〇人、二か月間、全寮制で教育を受けた。陸軍経理学校の敷地には、建設省地理調査技術員養成所や恵泉女子学園短期大学も設置された。そのほか、陸軍技術研究所には郵政省電波研究所が設置され、戦災孤児の養護施設である東京サレジオ学園も移転してきた。
傷痍軍人武蔵療養所は、厚生省に移管されて国立武蔵療養所になり、ひろく国民に開かれた精神医療機関になった。戦時労働力の動員施設だった東部国民勤労訓練所は、戦後に労働省の所管になり、さらに東京都に譲渡された。この場所には、第五章第一節1や第五章第四節4で詳しくふれたように、身体障害者の訓練施設や病院、養護学校が集まり、一九五一年には、小川駅から二〇〇mの同じ敷地内に、東京身体障害者公共職業補導所と東京都多摩公共職業補導所、東京都共同作業所、緑成会の病院と整育園、多摩保育園、東京都立光明小中学校多摩分校がそろった。これらの施設や学校に入るために、他地域から家族で転居したり、施設や学校の卒園・卒業後も小平に住みついたりする人が少なくなかった。
一九五五年以降から市制施行までの人口急増を支えたのは、引き続く都営住宅建設、ブリヂストンをはじめとした工場建設などにともなう社宅の建設や官舎公舎の建設などであった。ブリヂストンの工場には、九州をはじめとして全国から労働者が集まった。