郊外化と定住志向

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市制施行以降、小平市の人口は一九六〇年代を通して急増を続け、一九七〇年代に入ると増加のテンポがやや鈍くなり、一九七〇年代半ばに一五万人で横ばいになった。第六章第二節1で国勢調査をくわしく検討したように、一九六〇年代における小平市の人口急増の中心は、一〇代後半から二〇代前半の青年層であり、さらに二〇代後半から三〇代後半の若年層だった。若年層では男女ともに有配偶率が高く、子どもの増加率が高いことからすれば、小平で生まれた子どもと、他地域で結婚して子どもをもうけ、小平に移ってきた若い夫婦が多いことがうかがえる。第六章第二節1で指摘されたように、一九六〇年代の小平市は、若者と主婦と子育ての町だった。

図6-39 建設される住宅(花小金井地区) 1962年
『こだいら市勢概要』1962年

 小平市では、一九七四(昭和四九)年以来、「小平市政についての世論調査」を毎年実施し、そのなかで市民の定住意識を調べている(『小平市三〇年史』)。これによれば、「永住したい」もしくは「当分住みつづけたい」とする定住志向は、一九七四年から一〇年間にわたり、おおよそ七〇%をしめており、「必ず移転する」と「できれば移転したい」の移転志向は、一五~二〇%にとどまっていた。小平市民の定住志向はかなり高いといえよう。
 定住志向は、ただし、年齢層によって異なり、男女ともに四〇代の年齢が定住志向の平均を示し、五〇代以上になると定住志向が高まり、三〇代以下になると定住志向は減る傾向にあった。また居住年数も定住志向に反映し、小平市に長く住み続けている人ほど定住志向は強かった。先に示した一九六〇年代の人口増加の中心である青年層と若年層のうち、既婚で子どものいる若年の夫婦の場合には、まだ定住志向がそれほど高くなく、しばらく住み続けるうちに定住志向が増したと理解できる。
 右のアンケートでは、定住と移転を希望する理由もたずねている。定住希望の理由は、ほぼ毎年、第一位が「自然環境がよい」であり、第二位が「長年住みなれ愛着がある」であり、移転希望の理由には、「住宅の都合」「仕事の関係」「交通が不便」などがあり、一九八三年までは上位にあがっていた「下水・道路などの都市施設が整っていない」は、一九八五年以降になると下位にさがっている。
 この当時の小平の自然環境については、二つのことを指摘する必要がある。一つは、近世の新田開発による農家の地割りである。屋敷を囲むように防風・防砂林を植え、畑の境界にも木を植え、屋敷から一番遠いところに堆肥用の葉を集める雑木林を植えるように、新田開発は木とのかかわりが深かった。小平では、地租改正や農地改革後にも、区画の境界として屋敷林や防風・防砂林の一部が残され、樹木の多い自然環境につながったのは、新田開発の地割りによるところが大きかった。
 もう一つは、戦後の都市化にともなう開発の激しい波は、このような風景をこわすことになり、一九六〇年代から七〇年代は、小平の自然環境が崩れていく時期にあたっていたことである。小平市では、一九七〇年から「長期総合計画」を策定し、市政の長期的な方針をたてるようになるが、一九七〇年の『長期総合計画』は開発を軸にしており、「長期総合計画」のなかで公園・緑地・用水への関心と記述が多くなるのは、一九八〇年の『第二次長期総合計画』からだった。この点からすると、第七章第四節4でとりあげるように、一九七四年に発足した「小平玉川上水を守る会」が、玉川上水にコンクリートによる護岸工事を実施したり、汚水を流しこんだりせずに、最小限度の土木工事で「守る」ことを掲げたのは、小平市の自然環境の保持にとって画期的な意味をもっていた。