東京都は一九六〇(昭和三五)年に早くも人口一千万人になろうとしていた。一九六四年のオリンピック開催に向けて建物や道路の建設が急ピッチで進められていた。急激な都市化のもとで、住宅問題、ごみ問題、交通問題、上下水道問題などの都市問題が深刻となっていた。有効な対応策がとられなかったうえに、物価の急騰は続き、都議会議員選挙をめぐる汚職事件もおき、都民の不満は鬱積していた。
一九六七年四月の東京都知事選挙は、都市問題と都市政策が争点となった。社会党と共産党の推薦で立候補した前東京教育大学教授の美濃部亮吉は、公約の一番に「物価問題で都民運動の先頭に立つ」ことを掲げ、都民生活重視の政治姿勢をアピールして支持を得て、革新都政が誕生した。
美濃部は都民との対話を重ね、一九六九年度の都議会施政方針演説では「私たちは都民に向かって、かしこい消費者になってほしいと呼びかけ、そのことを助けるためのさまざまな試みをいたしております。だが、そうした試みを通じて、私たちが目ざすべきは、賢い消費者から強い消費者になってほしいということであり、強い消費者をつくりだすための基盤を都の行政が提供すべきであると考えます。そのために、私はさらなる努力を傾ける所存であります」と述べた(『東京都議会会議録』)。それまで生産者の側を向いていた行政の方針を転じて、消費者の権利と利益を守るという立場を明確にした美濃部都政は、消費者運動の発展に大きな影響を与えていく。