学園東町生活学校と資源回収運動

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小平市では、ごみの処分をめぐって二三区や隣市田無市(現西東京市)などで起きていた騒動のような事態はなかった。しかし、人口増加は当然、ごみ量の増加につながり、ごみの減量は行政の重要な課題であった。
 そうしたなかで、資源回収運動のさきがけを果たしたのは学園東町生活学校だった。一九七五(昭和五〇)年六月、小川西町と学園東町にそれぞれ生活学校が誕生して、市内の生活学校は五つになった。学園東町生活学校の高橋道子は、すでに三年前から市内の生活学校に参加し、日頃から消費者問題に強い関心をもっていた。高橋は、自分たちの地域で、五〇人の仲間とともに生活学校をはじめる喜びを、あらためて仲間と力を合わせ「人としてどう生きなければならないか」という問いかけを自分自身になげかけ、大切なものを身につけたいと、語った(『市報こだいら』第三一一号)。

図7-20 生活学校で資源ごみを回収する
『公民館40年のあゆみ』

 学園東町は、一九五六年六月に二五四世帯で自治会を結成し(当初の名称は町内自治会あづま会)、五九年六月から自治会報の発行をはじめ、新生活運動のモデル地区にも指定されていた。コミュニティ作りに熱心な地域であり、生活学校ができた頃には、会員が一七〇〇世帯で、広報部、施設部衛生部、防災部、福祉部、青少年部、婦人部に分かれ、緑と花いっぱい運動、ボランティア運動、老人会、こども会、文庫活動、民謡や着付けの教室など、幅広く活動をおこない、住民同士はもとより地元商店や行政とも密接な関係を築きあげていた(『学園東町自治会報』第一九二号、第一九三号、第二〇〇号、第二〇二号、第二五〇号)。学園東町のなかで、「住民の具体的な生活課題をとり上げ、住民自らの努力によって解決を図りつゝお互いの連帯を結び、よりよい地域社会づくりの一端を担いその活動を通じて自己変革を遂げる」という基本方針のもとに生活学校が最初に着目した実践活動は、資源ごみ回収(リサイクル)活動であった。小平市のごみの最終埋め立て場となる羽村・瑞穂が困っている状況を理解し、資源を大切にする必要性や、市で運搬するごみ量が少なければ他のことに税金を使えることに気づき、そこから実践をはじめた。
 資源収集所の協力を申し出た自治会会員宅の前に月に一回集積された新聞、雑誌、ダンボール、鉄類、空カン、ビールや酒、ジュースなどのビン、古着を生活学校の会員がリヤカーや一輪車で集め、業者に買い取ってもらうといった行動力のある活動は次第に近所に広がり、会員は「地域の方々と親密さを増し、いままであまりお話ししなかった方とご挨拶を交す事になり外を歩いていてもこゝが私の住む町だという充実感」を味わった(『学園東町自治会報』第一八八号)。回収運動自体を自治会運営にすることはできなかったが、自治会の長寿会のメンバーも協力を申し出て、町内で幅広い協力を得た(近現代史料集④ No.一〇九)。七六年の市民まつりのぼろ市にも参加し、恒例行事としていく(『学園東町自治会報』第一九七号)。七八年二月には市の清掃課と消費経済課の担当者を交えた懇談会を開き、小川東町安宅住宅親和会の田辺洋子が、「学園東町の〝ゴミを考え、資源として回収〟している話を、生活学校を通して知りました。それまで地域の子ども会などで、〝紙とボロ〟については回収していましたが、本やビン、カンまで資源として再利用できることを知った」と述べているように、他地域でも資源回収活動の輪が広がっていった(『小平市報』第三八四号)。
 資源回収活動は「行政にも高く評価され」、七八年度に小平市の資源回収団体への補助金要綱ができるはずみとなった(『学園東町自治会報』第二一七号)。収益の一部を福祉に寄付し、さらには町民大運動会の費用にあてるなどした(『学園東町自治会報』第二三〇号)。消費者運動がごみ減量という大きな社会問題解決への糸口となることを立証し、地域のつながりや行政の施策をリードした。

図7-21 資源回収センターの見学
『公民館40年のあゆみ』