「何も加えない」保全

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かつて玉川上水は、小説家・太宰治(一九〇九~四八年)が入水自殺した場所として知れわたった水量豊かな川であった。戦時中、学童集団疎開してきた児童は、その光景を見て「人食川」と称し、恐怖したという(『疎開は勝つため国のため』)。しかし、一九六五年に東京都の淀橋浄水場が廃止され、水は小平の西端東京都水道局小川浄水場から東村山浄水場に送られるようになって、玉川上水は上水道としての使命を終えたかのように思えた。このため水量は激減し、両岸は崩れ落ち、植えられていた木々も朽ち、舟が浮かんでいた水運の姿はなくなってしまった。
 その川の在り方に「改革」を加えようとしたのが、便利さを優先した地域の人びとであった。用水にコンクリートの蓋をして、自動車を通す道路に活用しようとする計画を立ち上げたのである(近現代編史料集⑤ No.二九二)。さらに家庭排水などによる汚水問題で苦慮していた市民は、玉川上水を「下水道」にして用いる案を提起した(同前)。それに対して、玉川上水を「開発」の名の下で「改変」することに意義申し立てを企てたのが小平市玉川上水を守る会であった。
 守る会が発足したのは、一九七四(昭和四九)年七月二〇日であった。目的は、「上水の自然環境を破壊するものを、断固排撃する」(「玉川上水を愛しましょう」)という玉川上水の保全にあった。そのために掲げた第一義が「何もしない」「何も加えない」ことであった。すなわち「公園の体」をなすような添加物を加えた「改良・改革」ではなかった。「そのまま」の在り方に価値を置いた保全の仕方であった。
 「何もしない」とは、汚水を流し込まないことだけではない。また、崩壊しそうな両岸の側溝(ハケ・土手・崖線)をコンクリートなどで護岸工事を施すなどの整備をすることでもない。ローム層が霜柱などの凍害で崩れることを最小限に抑える土木技術を施すことであった(「玉川上水を守るということ」)。