図7-29 『玉川上水』創刊号 1975年
ところで、会員でもあった作家の山本茂実(一九一七~九八年)は、この会の参加者たちの運動をみずからもふくめて故郷喪失者の回帰現象とみなした。「守る会の参加者たちはどうか―青雲の志をもって故郷を捨て、都会にとび込み、がむしゃらに働き続け、根をおろした他郷の土地で、やがて熟年期を迎え、われとわが身にかえった時、目もくれなかった故郷への思慕がこつ然と湧いてくる。自然を守る運動は、捨てた故郷の再現欲求でもある。回遊動物の回帰現象、つまり生物の本能だ」(「われとわが身にかえった時」)と山本は書いた。
生物としての「回帰現象」が、あったとしても、新しく移住してきた市民は、ここ小平に「故郷」を創出する以外になかったのである。この課題に楔(くさび)を打ち込んだのが、会報のインタビュー記事「シリーズ 地元の方を訪ねて」であった。創刊号から地域に長く住む古老からの聞き書きを掲載した。第一回は、かつての小川新田山家(現喜平町)で水車小屋(車屋=粉屋=製粉工場)を営んでいた清水忠次郎であった。清水は、夜桜に賑わい、蛍が飛び交い、老木のクヌギでうっそうとしていた玉川上水の沿道を語るが、団地などに移り住んできた市民は、その上水の歴史を知らず、テレビなどの家具を不法投棄すると、いらだちを隠さない(「清水忠次郎老は語る」)。
このシリーズには、小川で酒造業・車屋を経営していた金子博(『玉川上水』第二号)、小川七番で養蚕を手広く営んでいた村野吉之進(同第三号)、市議であった根古坂の小野弥十郎(同第四号)、鈴木新田で造園業を営む斉藤勇輔(同第五号)、山家で水車屋を営んでいた清水治助(同第七号)、小川で養蚕などを営んでいた竹内三郎(同第八号)、小川で酒造業を営む鈴木恒吉(同第九号)、米穀商の小島啓次郎(同第一〇号)、神明宮の氏子総代の田中次雄(同第一一号)、教員歴四〇年の立川嘉夫(同第一二号)、近在の信仰を集めた瘡守稲荷を屋敷神として祀っている小山喜彬(同第一三号)、鈴木新田に鎮座している稲荷神社の氏子総代である岡田久義(同第一六号)、花小金井で農業を営み在郷軍人分会長や戦後は市議をつとめた島村繁治(同第一八号)の一四人が登場した。
話を聞き出し、記録した会の世話人である庄司徳治は、会津出身で、一九六一年に小平に移転してきた新しい住民である。その意味では、故郷喪失者であり、この聞き書きをはじめとする守る会の活動は、「故郷創出」の営みの一環ともいえる。庄司による小平旧住民である人びとへの聞き書きは、二〇周年記念特集号(同第一九号)を前にした第一八号で閉じるが、その後も「聞き書き 八左衞門橋辺りのむかし―滝島昌訓さん」などに引き継がれていく。
そのような玉川上水を守る会の活動を当初より見守っていた小説家杉本苑子は、一九九四年七月に刊行された『玉川上水 二〇周年記念特集号』で「生物の一員である人間は、自然と歴史を無視しては生きられない」と語った。人間は自然によって育まれ、歴史によって賢くなる生き物である。環境をまもり、歴史に学ぶ尊さを杉本は訴えたのである。