一九七六年に、三年生以上の児童を対象としておこなわれた遊びと遊び場にかんするアンケートでは、「一小区域内には、公園、遊び場が余りにも少なく、他の学校のグラウンドを借りているような状態」がわかるとともに、遊びの現状や児童の遊び場に対する意見を浮き彫りにするものであった。アンケートの結果、浮かび上がってきた一小の平均的子ども像は、「テレビに二・三時間を費やし、高学年では勉学に追われて友達と遊ぶ余裕は余りなく、遊び仲間も主に同じクラスの人」というものであった。子どもたちの意見としては、「安全で広くて安心して遊べる所がほしい」、「このごろ空地に家がたつから、遊ぶ場所が少なくなる。空地に家をたてないでほしい」、「ふだんの日も、校庭開放してほしい」など広い遊び場を望む声が多かった(近現代編史料集④ No.一三)。
このような状況を受けて、PTAでは一小学区内の広大な空地である蚕糸試験所跡地を子どもの遊び場として整備すべく市に対し働きかけていくこととなり、一九七七年に中央公園として整備され開放された。この公園には、散策路、雑木林、グラウンドがあり、特にグラウンドはそれまで道路で遊んでいた子どもたちが野球やサッカーなどをするのに十分なくらい広く、のびのびと遊ぶようすがみられた。しかし、一九七九年になると、市の運動公園として整備し直すことが決定し、運動競技場やアスレチック広場などが新たに作られることとなった。この再整備により野外遊具は充実したものの、子どもたちはようやく手にした自由に遊ぶことのできる広い遊び場をふたたび失うこととなったのである。
図7-33 あじさい公園で遊ぶ子どもたち 1977年
『こだいら市勢要覧』1977年
一九八〇年代に入ると子どもたちの遊びの内容に変化があらわれるようになる。一小PTAが実施した一九七六、七七年のアンケートでは、男子児童の遊びの第一位はいずれも野球で、女子の第一位はボール遊び(一九七六年)と自転車(一九七七年)であり、屋外における集団の遊びが多かった。しかし、一九八一年になると、小学二年生では野球や自転車など屋外での遊びが比較的多いものの、高学年になると、ゲームや本(マンガを含む)など屋内で少人数または一人でおこなう遊びが多くなる。そして、実際に遊んでいる場所も自分の家がもっとも多く、次いで友達の家、三番目にようやく屋外の公園が入ってくる状況であった。習い事や塾などに通っている子どもの数も非常に多く、回答数一三一人のうちで何も習っていない子どもの割合は一二%(一六人)であり、それ以外の子どもたちは何らかの習い事や塾に通っていた。「最近の子どもたちは遊ばなくなった」といわれていた時期であったが、遊ばないのではなく遊びの内容が変わった、「遊ぶ時間がとれなくなってきた」というのが実情であった。一方で、「どんな所で遊びたいか」という問いかけに対しては、中央公園がもっとも多く、ついでその他の公園、校庭、空地と、屋外での遊びを望む声が多い。屋外での遊びを希望しつつ、実際は屋内で遊ぶという矛盾があらわれていた(小平第一小学校PTA『ひろば』第七七号)。
一九七〇年代から八〇年代の小平では、子どもたちの遊びの場や遊びの内容が大きく変化していた。一小PTA広報委員会は、子どもの遊び場は「友達との交流の場であり、遊び仲間という小さな社会で集団のきまりを守り、協力がいかに大切かを学ぶ絶好の場」であり、遊びは子どもにとって「欠かせぬ成長の要素」だと述べている(近現代編史料集④ No.一三)。しかし現実は、皆と安全に遊ぶことができる空間は少なく、習い事や塾に通う子どもが増加して放課後に遊ぶ時間がなくなり、子どもたちは空間的にも、時間的にも自由に遊べない状況におかれていた。一九八〇年代半ばになると、家庭用ゲーム機も普及し始め(一九八五年一二月の時点で家庭用ゲーム機をもっている一小児童は男子で六三%、女子で二八%であった)、ますます子どもたちの遊びの屋内化が進んでいくことになる。