一九七〇年代の中学生の進学動向は年々厳しさを増し、「中学浪人」が社会的な問題となっていた。この時期、東京都の高校入試制度は、学校群制度(一九六七~八一年度)を採用していた。これは、学区内でいくつかの学校群を制定し、その中で入試の平均点が均等になるように合格者を振り分ける方式(全日制普通科のみが対象)であり、学校群内の各校の学力格差をなくし均質化をめざしたが、新たに学区内の学校群間での入試難易度の格差が生じることになった。そして、原則として本人の希望にかかわりなく合格者を学校群内の各校に振り分ける仕組みであったため、受験生の選択の自由は大きく制約され、遠距離通学を余儀なくされる者も多数出ることになった。また、第二志望を認めない方式だったので、公立高校から私立高校への受験生の流出が増えていた。東京都では、受験生の数と受け入れ学校数とがアンバランスであるという問題を解消すべく、高校増設計画を立てていたが、土地取得や財政等の問題で思うように進んでいなかった。
一九七〇年代当初、小平市にある都立全日制普通高校は都立小平高校の一校のみであった。一九六一(昭和三六)年段階で二八〇〇人程度だった中学校生徒数が、一九七一年には約五〇〇〇人と、一〇年間で二二〇〇人近くも増えているのに、都立高校の数はそのあいだ変わらなかった。都立高校志望者に対し、高校の数が少ないため志望者全員を収容できない、また学校群制度のため子どもの希望や特性に配慮した高校選択ができないなどという問題が生じていたのである。
図7-35 小平第三中学校、卒業生の門出 1971年
小平第三中学校『20年のあゆみ』
一九七〇年代当時の小平市の中学生の進学はどのような状況であったのか。一九七四年度における小平市内の中学卒業者数は一六〇四人で、うち就職と訓練校を除いた進学者は一五五八人(九七%)であった。その内訳は、私立高校進学者が七三六人(四七%)、都立全日制普通科進学者が六三六人(四一%)、都立全日制職業科進学者が一四九人(一〇%)、その他(定時制・各種学校など)が三七人(二%)である。都立普通高校でもっとも進学者が多かったのは、小平高校で九八人、ついで久留米高校が七三人、東村山高校が七一人であった(「四九年度小平市中学校卒業生進路状況」)。その前年度のある中学校における志望校の状況は、「都立が男女計一五八名で八〇%、残り二〇%が私立高校。都立のうち職業課程希望は三八名で七〇%は普通都立高校を志望している」という状況であった(『小平に都立高校増設をすすめる会だより』第一号)。結果を重ね合わせてみると、都立高校普通科を志望しても実際は入学できず、私立高校への進学に切り替えている生徒が多数いるということがわかる。
一方、一中の一九七一年度の進学状況についての総評によると、私立高校が都立高校のすべり止めという位置づけではなくなり、都立への進学をやめてでも私立、特に大学附属高校に進学しようとする者が増えていたことがわかる(『小平一中PTAしんぶん』第五〇号)。大学受験を見すえた高校進学の動向があらわれてきていたのである。一九七〇年代前半の全体の状況は、都立高校進学者数が三〇%から四〇%程度、私立高校進学者数が五〇%から多いときでは六〇%程度であった。この状況は七〇年代後半になると、都立高校進学者の割合が増え(五〇%台)、私立高校進学者の割合が減る(四〇%台)という逆転現象が起きる。この要因は、一九七七年に都立小平西高等学校、一九八三年に都立小平南高等学校がそれぞれ開校したことと、一九八二年に都立高校の入試制度が変わったことによって、都立高校入学への選択肢が増えたことにあると思われる。
表7-8 小平第一中学校 卒業生進路状況 | ||||||
年度 | 総数 | 都立 | 私立 | その他 | 就職 | |
1972 | 男 | 179 | 86(48%) | 84(47%) | 4(2%) | 5(3%) |
女 | 146 | 60(41%) | 80(55%) | 0(0%) | 6(4%) | |
合計 | 325 | 146(45%) | 164(51%) | 4(1%) | 11(3%) | |
1973 | 男 | 169 | 65(38%) | 94(56%) | 5(3%) | 5(3%) |
女 | 142 | 61(43%) | 77(54%) | 0(0%) | 4(3%) | |
合計 | 311 | 126(40%) | 171(55%) | 5(2%) | 9(3%) | |
1974 | 男 | 135 | 43(32%) | 84(62%) | 3(2%) | 5(4%) |
女 | 129 | 48(37%) | 74(57%) | 5(4%) | 2(2%) | |
合計 | 264 | 91(34%) | 158(60%) | 8(3%) | 7(3%) | |
1975 | 男 | 172 | 70(41%) | 94(54%) | 5(3%) | 3(2%) |
女 | 118 | 60(51%) | 54(46%) | 3(2%) | 1(1%) | |
合計 | 290 | 130(45%) | 148(51%) | 8(3%) | 4(1%) | |
1976 | 男 | 169 | 83(49%) | 78(46%) | 6(4%) | 2(1%) |
女 | 166 | 73(44%) | 84(50%) | 6(4%) | 3(2%) | |
合計 | 335 | 156(47%) | 162(48%) | 12(4%) | 5(1%) | |
1977 | 男 | 164 | 76(46%) | 76(46%) | 9(6%) | 3(2%) |
女 | 134 | 73(54%) | 53(40%) | 7(5%) | 1(1%) | |
合計 | 298 | 149(50%) | 129(43%) | 16(6%) | 4(1%) | |
1978 | 男 | ― | 84 | 不明 | 7 | 3 |
女 | ― | 86 | 不明 | 7 | 1 | |
合計 | ― | 170 | 不明 | 14 | 4 | |
1979 | 不明 | 不明 | 不明 | 不明 | 不明 | |
1980 | 男 | 158 | 87(55%) | 58(37%) | 8(5%) | 5(3%) |
女 | 141 | 73(52%) | 61(43%) | 7(5%) | 0(0%) | |
合計 | 299 | 160(53%) | 119(40%) | 15(5%) | 5(2%) | |
1981 | 男 | 142 | 61(43%) | 68(48%) | 5(3%) | 8(6%) |
女 | 126 | 65(52%) | 52(41%) | 6(5%) | 3(2%) | |
合計 | 268 | 126(47%) | 120(45%) | 11(4%) | 11(4%) | |
1982 | 男 | 183 | 90(49%) | 71(39%) | 12(7%) | 10(5%) |
女 | 168 | 99(59%) | 67(40%) | 2(1%) | 0(0%) | |
合計 | 351 | 189(54%) | 138(39%) | 14(4%) | 10(3%) | |
1983 | 男 | 166 | 90(54%) | 54(33%) | 13(8%) | 9(5%) |
女 | 167 | 96(57%) | 56(34%) | 12(7%) | 3(2%) | |
合計 | 333 | 186(56%) | 110(33%) | 25(7%) | 12(4%) | |
1984 | 男 | 174 | 94(54%) | 65(37%) | 6(4%) | 9(5%) |
女 | 154 | 74(48%) | 71(46%) | 7(5%) | 2(1%) | |
合計 | 328 | 168(51%) | 136(42%) | 13(4%) | 11(3%) | |
(出典)『小平一中PTAしんぶん』より作成。 (注1)その他には、定時制、養護学校、高専、各種学校、国立大附属などが含まれる。 (注2)1978年度の私立学校に関しては、入学者数が不明である。 (注3)1979年度に関しては、合格者数しかわからないため不明とした。 (注4)1985年以降は、就職及び各種学校の男女別が不明になったため、本表には含まない。 (注5)小数点以下は繰り上げ。 |
志望校と実際に入学する高校とのマッチングのために、学校や地域においてどのような取り組みがあったのだろうか。以下では、都立高校増設運動について紹介する。