中学受験をめぐる問題のなかで、親、子、教員の三者はどのような思いを抱き、受験に臨んでいたのだろうか。
PTA広報誌などに出てくる受験生をもつ親の意向としては、学歴が欲しいわけではなく、自立した一人の人間として社会で生きていける力をつけさせたいであるとか、本人のやりたいことを尊重しているので本人の志望する高校に入学してほしいなど、成績や高校の「良し悪し」ではなく、本人の意思を尊重した選びをしたいと考えている人が数多く見受けられる。その一方で、現実問題との折り合いのなかで、金銭的な問題から都立高校に進学することを求めたり、地元志向から自転車で通うことが出来る学校への入学を望んだりする人も多数いた。
一方、子どもたちの高校選びの基準は何だったのか。自分の成績や将来の目的による選択はもちろんのこと、その他さまざまな理由での学校選択が見受けられる。ある受験生の場合、「親としては、お金も用意できなかった事もあるが男女共学の都立に入れたらバンザイ」と思っていたが、「娘の第一の条件がなんと制服のある学校で、それと電車に乗っていける所、少しでもいい学校(勿論偏差値の高い学校)を望んでしまった」という(『小平・高校問題協議会だより』第二四号)。その後、親が必死の説得を試みるも娘は頑として譲らず、結局私立の女子校に行くことになった。子どもたちのなかには、偏差値偏重といわれる受験状況のなかで、それとは別の価値を加えて学校選択をしようとする者もいた。親や教員と時に対立することもあったが、高校進学は多くの子どもたちにとって、自分の将来を見据えたはじめての自己決定の機会でもあった。
教員たちもさまざまな工夫のなかで、悩みながら進路指導をおこなっていた。一中では、中学二年のときから「自己理解のための調査」、「職業についての学習」、「上級学校を知る」など進路にかんする取り組みをし、三年時に具体的な高校の調査、先輩訪問などの課題を与え、より広く進路について学んで決定に至る、というプロセスで進路指導をおこなっていた。進路指導にあたって教員が望んでいることは、「生徒の能力が最大限に伸ばされ、しかも充実した高校生活が送れるような高校に進ませたい」ということであった(『小平一中PTAしんぶん』第七三号)。しかし、現実はそのようにいかない場合もあった。一九七四(昭和四九)年時点での高校入試の実状について、ある中学教員は、「本来は希望とか特性とかを考えた上で決めるのが建前なのだが、そんな事はいっておられず、うまい具合にばらまくというのが実情」だと述べている(『小平に都立高校増設をすすめる会だより』第一号)。このような状況が「教育的にはマイナス」であることは承知しつつも、「中学浪人」を出さないための苦肉の策であった。一九八二年に都の入試制度が変更になった際は、新制度のもとで「見通しがきかず偏差値にたよらざるをえなかった」と、偏差値偏重の現状を批判しつつ、それを利用せざるを得ない状況に苦悩していた。教員たちは、制度、子どもや親たちの希望、そして成績という現実のなかで「受験戦争」に臨んでいたのである。