青年学級連絡会

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一九六〇年代後半の青年学級は、小平に移り住んできた若者向けに教養講座を充実させようとした。学級生は講座で活発に学習しながら、同じ年代の仲間づくりを進めたが、今まで青年学級全体をつないできた青年学級運営委員会がレクリエーション活動に偏重してしまい、その結果、学習面からの青年学級全体のつながりが薄れてしまった。各講座間の連携を見直して学習面から青年学級全体のつながりを強めるため、一九六九(昭和四四)年に青年学級連絡会が組織される。運営委員会に代わって、青年学級全体をまとめる役割を果たしていくことになる。
 連絡会では、青年学級の各講座が「青年学級を考えていこうとする一つの連絡会という組織に力をあわせ、公民館に運動する必要がある」(『ともしび』第一三号 一九七〇年度)ことを掲げて、学級生が主体的に公民館の青年教育にかかわっていくことを目指した。一九七一年度に公民館が講師補佐を設置しようとした際、連絡会では青年学級生のなかから選出したい旨を公民館に伝え、その後の支援や活用方法まで議論して承認を得た。
 連絡会ではこうした学級生の主体的活動をすすめるために、青年学級の文集である『ともしび』とは別に、機関誌である『連絡会ニュース』(第一一号から『かかし』と改称)の発行に力を入れていく。『連絡会ニュース』は、一九六九年一一月四日に発行をはじめ、七〇年八月の第八号から月一回の発行が目指された。その後、七〇年度に計一四号、七一年度に計一二号、七二年度に計一一号と発行される。当初の紙面は、連絡会の書記が作成した伝達事項を一方的にお知らせするものがほとんどだったが、一九七〇年八月二一日発行の第九号からは編集委員が作成するようになり、学級生の声として連絡会事務局員以外の人の意見や感想を掲載するようになる。一二号から分量も八頁以上と倍増させて、仲間からの意見を筆頭に、各種行事の報告と感想、座談会、そして歌あり詩ありの読み応えのある内容構成とした。

図7-37 小平市青年学級連絡会『かかし』第11号 1970年

 『かかし』が豊富な内容となり、学級生の貴重な意見を集める議論の場となったことで、連絡会では『かかし』の重要性を認識して、その編集や協力体制について活発に議論するようになる。『かかし』(第二九号 一九七一年一二月二六日)では、「対談 かかし編集委員よ 悩むことなかれ」という企画を設けて、『かかし』を今後どのようにしていったらよいのか、どうしたら「みんなの『かかし』」になるのかを話し合っている。そこで、『かかし』の発行に多くの学級生がかかわるような編集体制づくりが提案される。文章を寄せられない人には「ガリ版」の作成を手伝ってもらい、それも難しい人にはホッチキスを止める製本作業だけでも協力してもらうようにお願いし、編集委員も「時間があったら来てくれ」ではなく「みんな来てくれ」と呼びかけることになった。また「他のサークル、三鷹などでも出しているのを見ると、形式が決まっているんだよ。形式にとらわれなくてもいいと思うんだよ。こういっちゃーわるいけど、『寒くなりましたね』等は、天気予報ではないんだろ。ただ表面的なことでなく、寒くなったら、俺の所にストーブがないっていうことまで、触れていいと思うんだ」と、誌面の形式にとらわれず、より掘り下げた内容とスタイルを提案している。
 こうして連絡会の議論の場として機能するようになった『かかし』は、その後一九七五年一二月の第五二号まで発行され続けた。しかし、七三年度は計五号、七四年度は計一号、七五年度は計五号の発行と停滞する。『ともしび』(第一六号 一九七三年度)では、「かかしの位置づけ等について話し合うことは話し合ったけれども、結局何一つ決めずに一年間進んできた」という反省が述べられた。連絡会でも「ますます活発にとおもいきや後に続く人の人手不足というか、こうけい者の確保の無いというか、ていたいムードに乗った感がある」と振り返っている。その後、青年学級のまとまりを象徴する学級生記念文集『ともしび』も、一九七五度の第一八号が最後となった。