婦人教養セミナーの開設と女性グループの自主化

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一九六九(昭和四四)年度より、小平市の公民館では婦人教養セミナーが開設された。このセミナーは、「婦人のサークルづくりと、そのリーダー的役割をになえる人たちを育てることを目的とし」たものであった。開設の背景には、以前より公民館で開設してきた講座が、成人学校の教養講座のように「多分に啓蒙的なもの」であり、また、婦人学級のように「なんでも話し合うことを目的としたもの」であったため、「婦人の自主的、持続的なグループは数えるほどしか生れて」こなかったという反省があった。このため、セミナーは、「日常の身近かな問題をとりあげ系統的な学習内容」を組み、講義と調査、レポート、討論を結び付けた方法で、一五回から二〇回の長期講座として開かれることになった。
 セミナーが開始される以前の小平市における「学習運動」「婦人運動」については、①「あまり目立ったものが」ないこと、②「住みよいまちをつくっていこうとする意欲をおこさせるには、地理的あるいは、政治的条件に欠けているようで」あり、問題を深く、広く考えていくことができない、③市内にある少人数の読書会、話し合いのサークルやグループの活動状況を把握できない、という評価がある。(小平・教育を考える母親の会『母親のみた教科書』)。上記の地理的、政治的条件とは、一九六〇年代に進展した郊外化の状況を指していると思われる。第六章第四節3で述べたように、六六年には郊外化の進展に対応した婦人教室を開設したものの、女性の主体性や「連帯感」の醸成という目的に対し、参加者の階層や主体性のあり方、人数的な広がりの点で限界があった。このような状況のもとで、まちづくりの「運動」を盛り上げるためのサークルづくり、リーダー育成のための長期講座として開設されたのが婦人教養セミナーであった。
 一九七〇年に開設された婦人教養セミナーのひとつである教育講座は、「小平・教育を考える母親の会」という自主グループを生みだした。五月から一二月まで、週一回、午前一〇時から午後一二時半まで二〇回にわたった教育講座(途中、夏休みをはさむ)は、六九年の「教育講座 日本人の教育観」における中心的な女性が結成した、教育基本法の研究会を基礎として開設された。当初の参加者は主婦二三名。二名から三名のグループを作り『戦後教育の森への証言』(教育科学研究会編、毎日新聞社刊、一九六九年)の輪読を中心におこなった。この後、七月に子どもの夏休みがはじまるため四〇日余りを休講としたが、この間に各自の選定したテーマについて学習し、レポートを提出することとした。レポートについては、調査活動に終始してしまい整理することができなかったなどの理由により、提出はわずかであったという。また、九月以降は参加者が一〇名と当初の半分以下になった。九月以降の講座では、参加者の希望により、七月に第一審判決が出されたばかりの家永教科書裁判(一九六六年、家永三郎が執筆した『新日本史』の教科書検定不合格処分取り消しを求める行政訴訟。右の第一審判決は、六七年提訴の第二次訴訟のもの)の判決文を学習した。学習は一二月で講座が終了した後も自主講座として続けられ、三月に判決文を読み終えている。以上の経過のなかで、小平・教育を考える母親の会の母体となったのは、夏休みの期間に編成された学習グループのひとつである、小学校の社会科教科書六社分の記述を比較検討するグループであった。同グループは市教育委員会から教科書を借り、各社教科書を比較するため特定項目をカードに写し取る作業からはじめ(最終的な比較項目は、日本国憲法、公害、地方自治、社会保障、世論、戦争、原子爆弾)、メンバーの脱落など紆余曲折を経ながら教育講座が終了したあとも活動を続けた。一九七一年四月には、教育講座で一緒に勉強した女性も教科書研究グループに新しく加わり、同年一〇月、成果が『母親のみた教科書』として刊行された。

図7-40 小平・教育を考える母親の会『母親のみた教科書』1971年
『こだいら公民館40年のあゆみ』

 家永教科書裁判の第一審判決文を読んだ感想として、教科書、学校の設備、学級数などについて他人や行政に「おまかせ」というかたちではなく、母親どうし、あるいは教員と話し合い「行動」していくことが重要であることなどが述べられている。一方で、教育講座の助言者であった小林文人(東京学芸大学教授)は、「主体的な問題意識が出されても、それが単に主体の〝熱いおもい〟の吐露におわって、〝冷たい客観的認識〟に結びつかない場合の方が多」く、知識は増えたが「それが充分に主体化されたかどうか」という疑問を述べていた(以上『母親のみた教科書』)。教育講座が、まちづくりの「運動」を盛り上げるためのサークルづくり、リーダー育成を目的とした婦人教養セミナーとして開催されたことは前に述べた。この意図と小林の疑問をあわせると、教育講座は、行政が期待したような成果をあげることができなかったといえる。
 一九七〇年代に入ると、学習を継続的におこなう自主グループの育成を目的として講座を開催するという公民館の方針に対して、「公民館はグループの生みすて」という声が出され問題となった。この対応策として七五年度より開始されたのが市民学習奨励学級であった。これは、サークルが自主的に運営する講座を市が後援するものであった。たとえば、女性差別撤廃を掲げた国連による世界行動計画(一九七五年)を指針として、女性の地位向上のための活動をおこなった小平婦人の会は、七九年二月の定例会での講演「日常生活と政治のかかわりを考える」(田辺敏郎・三多摩自治問題研究所)の内容について、もっと学びたいという要望が会員から出されたことから奨励学級に申し込んだ結果、九月から一二月に「地方自治とわたしたち」と題した奨励学級が開設された。

図7-41 婦人学級『せせらぎ』第1部 1975年度