公民館保育室の開設

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一九七〇年代の女性を対象とした社会教育で特筆すべきは、公民館保育室の開設である。一九六八(昭和四三)年の「働く母親と子どもの成長」(第六章第四節3参照)の開催以降、女性を対象とした講座の実施上問題となっていたのは、女性が連れてくる子どもが騒がしいことであり、公民館職員が隣室で遊ばせたり、受講生の自己負担で保育担当者を雇うなどしていた。一九七〇年度になると、市は保育担当者をアルバイトとして雇用する予算をつけたが、この段階でも費用不足のため受講者の自己負担が必要であった。しかも、保育室は旧町役場の一室に畳をひいただけの粗末なものであった。一九七〇年六月から一一月に開催された婦人問題講座を受講した女性たちのなかでは、保育環境が悪く講座に集中できなかった感想が多かった。たとえば、泥だらけの部屋でゴザにはカビが生え、窓にはその場しのぎの板が打ちつけられ、入り口のカギも貧弱で子どもが前の道路に飛び出しそうな状況のため、「せっかくの先生方の話もうわの空。とにかく、子供が無事で居てくれる事を願っていた」ある女性(二九歳)は、「子供に悪い事をしている様な気持、子を持つ母親は、勉強する事も出来ないのだろうか?人間の進歩を考えてはならないのだろうか」と自問する。そして、「清潔で、危険のない明るい部屋と、単に子守り的な、おばさん達ではなく、子供の事を良く理解出来、母親と話し合いの出来る、専門の保母さんがほしい」として、この実現のため、「今後、運動して行く事に決意した」と述べている(『つどい』)。
 一九七一年度には、女性グループ(いずみの会、太陽の会)が中心となった保育施設充実のための運動が起こり、議会への請願がおこなわれている。これが契機となり、七二年度には中央公民館に専用保育室が設けられ、女性の自己負担もなくなっている。七五年一二月には、母親、保母、公民館職員の三者による「公民館保育を考える会」が発足した。同会は、翌七六年、市議会に請願書を提出するなど保育予算確保のための運動を展開した。同会は、地区公民館(後の分館)の開設が相次ぐ一九七〇~八〇年代の時期に、各館での保育の充実などを求めて活動を継続した。
 一九七九年に発行された『小平市公民館保育室だより』第一号には、保育室が設けられたのは、学習を充実させる「若い母親のため」であるとともに、子どもが邪魔であるから預かるのではなく、「母親が仲間と学習しているのと同じように、子どもたちも広い年齢層の仲間の中で短い時間ですが大切な場の一つであるよう」にしたいと述べられている。つまり、集団保育の実施が子どもの教育のうえで有益であると述べているのであり、育児は専ら女性が担当する領域で、女性は子どもが小さいうちは育児を優先させるべきである、という考え方に対するアンチ・テーゼでもあった。女性と子どもの両者の成長を社会教育行政が対象とした点に、公民館保育室の画期性があったといえる。

図7-42 公民館の保育室
『こだいら公民館50年のあゆみ』

 ただし、一九八〇年代になると、公民館保育に対する女性の意識の変化が問題とされるようになった。一九八〇(昭和五五)年一二月に開催された小川西町公民館の保育運営会議では、初めて保育室を利用するサークルの女性から、「公民館にベビーシッターの制度があるなんて知りませんでした」などという声が出された。これに対して、公民館側は、保育室は子どもが「異年齢集団の中で新しい人間関係を結ぶ場で」あり、「単なる子どもの一時あずかり所では」ないことを主張し、また、親の都合で保育室に行く日が決められたり、母親がサークルを多数かけもちすることにより、保育が一定集団のなかでおこなわれなくなる事態を憂慮していた(『保育室だより』第六号)。一九八一年度には、「大人の都合だけで預ける行為が広まっていくことになれば、公民館保育室の存在意義も見失われていくのではない」かという認識のもと、利用者、保母、公民館職員の三者の話し合いを充実させて、「保育室に対する共通の理解と認識を深め」ることが提言された(『保育室だより』第七号)。女性を対象とした講座や自主サークルの増大という状況のもとで、公民館保育室の理念を理解しない母親たちの存在が問題とされるようになった。