また、同じく一九七五年になると、「老人のための明るいまち推進事業」の一環として、地区公民館などで趣味・教養にかんする各種の教室や老人福祉講演会が開催されるようになった。老人のための明るいまち推進事業とは、住民参加によって老人のための各種事業を総合的に実施するとして厚生省が七五年度に開始したもので、全国で九つのモデル都市が指定された。三か年で国、東京都の助成が打ち切りになったあとも、小平市は独自に老人のための明るいまち推進事業をすすめ、地区公民館では高齢者向けの各種教室や老人福祉講演会が開催された。本節3で述べているように、一九七〇~八〇年代は地区公民館の建設が相次いだ時期であった(八七年、中央公民館一館と地区公民館八館となる)。高齢者学級が中央公民館で開催されるだけの状態から、地区公民館ごとでも高齢者向けの教室、講演会が開催されるようになり、高齢者を対象とした社会教育の機会が増大した。
表7-11 小平市の高齢者人口 | ||||
(各年1月1日現在) | ||||
区分 | 人口 | (人) | 65歳以上人口の総人口比(%) | 65歳以上人口の生産年齢人口比(%) |
年次 | 総数 | 65歳以上 | ||
1981 | 149,229 | 8,857 | 5.9 | 8.3 |
1982 | 149,302 | 9,343 | 6.2 | 8.7 |
1983 | 149,930 | 9,762 | 6.5 | 9.1 |
1984 | 151,890 | 10,195 | 6.7 | 9.2 |
1985 | 153,118 | 10,720 | 7.0 | 9.6 |
1995 | 160,800 | 16,600 | 10.3 | 14.1 |
2005 | 161,000 | 26,100 | 16.2 | 24.1 |
(出典)小平市教育委員会『小平の社会教育』各年度より作成。 |
地区公民館での教室とともに、中央公民館で開設される学級の充実もはかられた。一九七五~八〇年に開設された高齢者学級は、毎年度一学級から三学級が開設され、一学級は一二回から一四回のプログラムで編成されていた。この高齢者学級が、一九八一年、シルバー大学となった際、講座回数が増加された。同年のシルバー大学は、開設は一学級、二二回のプログラムで編成されており、以後、八二年は、開設二学級のうち一つは老後問題を中心としたプログラムで四一回、ほかの一つは趣味の教室として一二回開催された。八三年から八六年の時期には、通常のシルバー大学に加えて(三学期制。八三年四四回、八四年三二回、八五年三七回、八六年三六回)、八三、八五、八六年に、前年度のシルバー大学の受講者を対象にしたシルバー大学進級コースが開設された(八三年一九回、八五・八六年各二〇回)。この進級コースの目的は、「学習の継続化と自主学習により、地域社会活動へのより積極的な参加を図る」というものであった(『小平の社会教育』)。高齢者学級からシルバー大学への転換により、講座回数の増加とシルバー大学修了者対象の学級を開設するといった、量と質の充実がはかられたといえる。
一九八二年度のシルバー大学の文集をみると、以下に示す男性の参加理由が注目される。定年の一〇年位前から「『定年後の生きがい』」について考えはじめ、「『自分の充電』と『地域で生きる』ことが最高と思った」というある男性は、「会社の人間関係はタテ、地域の人間関係はヨコである。ヨコの関係のほうが、ほんとうの仲間づくりができるように思った。小平流民から小平市民になり、若さの維持と老後の孤独防止のため応募した」という(六〇歳。傍点は原文のママ)。また、相次ぐ転勤の後、一九七二年に小平市に引っ越してきたある男性は、「小平市のことは何もわかりません。これからは第二の故郷として地域社会について学びたいと思い」申し込んだという(五八歳。以上の引用は『シルバー大学』昭和五七年度)。
一般的に、日本の高度経済成長の開始は一九五五年であり、その終りはオイルショックの後、一九七三年とされている。先に引用した二人の男性は一九二〇年代(大正一〇、一二年)生まれであり、五五年時点で三〇代前半、七三年時点で五〇代前半であった。高度経済成長のただ中の六〇年代は三〇代後半から四〇代であり、この時期に身を粉にして働いた男性であったといえる。そのような男性が定年を迎えて企業、職場から離れ、地域社会とのかかわりを模索するのが八〇年代前半という時期であり、小平市のシルバー大学は、このような男性の学習意欲を背景として開設されていた。